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この原稿は、僕が敬愛するサン出版の櫻木徹郎兄貴が編集していた『WOOOOO』という月刊誌に、毎月書いていたものの一部だ。いつごろだったか定かでないが、おそらく1998年ごろじゃないかと思ったりする。
事件をテーマに適当なことを書いていたのだが、日頃は世の中の出来事にあまり興味がないのだが、この原稿を書いていた頃は、割と新聞や週刊誌をよく読んでいたような気がする。(スエイ)
死ぬのが恐い
夕方テレビを見ていると、突然、脳死のことが報道され、高知の赤十字病院が映し出されていた。
最初はさほど関心がなかったのだが、翌日の新聞を見ると、まるでスポーツ新聞の見出しのような大きな文字でそのことが書いてあったり、テレビもうんざりするほど毎日そのことを取り上げるようになったりで、だんだん関心を持つようになってきた。
『ニュースステーション』で久米宏が「私もドナーカードを持ってます」なんて言うのを聞いていたら、なんとなく自分もドナーカードを持とうかなと思ったりした。
でも、私が事故なんかで頭を強く打って病院に運び込まれるようなことがあったとすると、あっこれは脳死かな……なんてことになってしまって、もう切っちゃおうかな……なんてことになって、臓器移植のコーディネーターとやらが病院に呼ばれ、あれれまだ死んでないよ……とか思っても自分では喋れなくて、そのうち腹が切り裂かれたりするんじゃないかと心配してしまう。でも、脳死状態の脳は本当に何も考えていないのだろうか。
これは私の邪推かもしれないが、今回のテレビ報道を見ていた多くの人が、高知赤十字病院のドナー患者が早く脳死にならないかなぁ……と思ったのではないかと思う。当然、放送にたずさわった取材スタッフは、もっと強くそう思っていたはずである。そういう日本中の期待が一致団結したら、なんだかものすごいパワーになり、一人の人間である医師の意志も(どーもすいません)揺らいでしまうのではないかなんて心配してしまう。
やっぱりドナーカードなんかは持ってはいけない、私は少しでも長生きしたい、なんて思ってしまう。
そのうち、心臓移植が成功したという報道になって、それを見ていたら、再びドナーカードを持とうかなと思ったのだった。人に自分の心臓を提供して、その人が生きてくれるということを考えたら、なんだか自分がもう一度生きられるようにも思う(よく考えれば脳はないんだから生きていることにはならないが)。そう思ったあと「あ、俺ってセコイ」なんて思って恥ずかしくなった。
いずれにしても、私は死ぬのが恐い臆病な人間であるということがよく分かった。
このことが分かったのは最近で、それまでは、私は幼いころ母親の心中自殺を経験して、死がそれほど恐いことではないと思うようになった、と思っていた。そういう自分がカッコイイと思っていた。でもそれは、自分にそう言い聞かせているだけではないかと、最近思うようになってきたのである。
なぜそう言い聞かせてきたかと言うと、「やっぱり男は常に男らしく、死ぬことなんて恐がっちゃ恥ずかしいぜ」という見栄があったからだ。映画なんかでサムライが切腹するのを見て、痛そうだなぁと思う反面、カッコイイと思っていたのだと思う。
最近、女装なんかしていると、ときどき「がんばって男をやらなくてもいいんだなぁ」と思うこともある。それで、自分のこれまでの行動を振り返ってみたりすると、「死ぬのが恐い」ってことを昔から潜在的に思っていた、と言うより人一倍死ぬのが恐かったのではないかと思う。
昔、グラフィックデザイナーに憧れ、横尾忠則さんにすごく憧れていた。横尾さんはその当時から「死が恐い」と良く書いていた。男として言えないようなことを言うというところが、さすがアーティストだと思った。自分が言いたくても言えないことを、横尾さんが代弁してくれていたのではないだろうか。
私は何かに熱中するタイプで、これまでにサックスやパチンコや先物取り引きや麻雀などに熱中してきたのだが、何かに熱中しているときは死のことを考えないから、私は熱中が好きなんじゃないだろうか。
「ギャンブルは死の疑似体験である」なんて人に言っていたが、一番気持いいのは大負けしたところから一発逆転するときで、これは一度死んだところから生き返る感じに似ている。死の疑似体験じゃなくて、蘇生疑似体験ではないだろうか。
イエスの方舟の千石さんのところに行くのもそうだ。千石さんは、人間は死なないと言っている。それはなぜかということを知るために、九州博多のシオンの娘やイエスの方舟の集会に行っているのである。千石さんの言う意味が分かったら死の恐怖も和らぐ。やはり、すべて死ぬのが恐いという私のサモシイ気持からである。
サモシイと書くところを見ると、私はまだ死が恐いと思うことを恥ずかしがっているのだろう。なんで「死ぬのが恐い!」と真剣に言えないのだろう。
なんてことを考えさせられたのが、今回の脳死と臓器移植の報道だった。でも、私のように、死ぬのが恐いと思っている人が多くいるから、脳死と臓器移植報道は盛り上がったのではないかと思う。
十代の死刑囚
連休、彼女とどこかに行こうということになって、「じゃあニューヨークに行ってみようか」と、私が言い出した。なぜニューヨークなのかというと、銃乱射事件が起ったあとだったので、この事件を考察しようと思ったから、というのは嘘で、久しぶりにニューヨークを見てみたかったからだ。
久しぶりと言っても、私が以前ニューヨークに行ったのはかれこれ二十年ほど前、「アイ・ラブ・ニューヨーク」のキャンペーンが始まったときだ。犯罪が多いニューヨークを安全な町にするというキャンペーンで、それに合わせたニューヨーク・ツアーに参加した。
ツアーといっても、行き帰りの飛行機とホテルが決まっているだけで、すべて自由行動だった。私はなんとなく怪しい場所を見るのが好きなので、バワリーあたりを歩いて、駐車している車のバンパーに腰掛けてウンコしているアル中のホームレスを見たり、歌舞伎町みたいなタイムズスクエアでブルーフィルムを見たりしていた。そして、タイムズスクエアで出会った黒人の娼婦とホテルに行き、セックスしている最中に全財産を盗られてしまった。そのあと、旅行代理店に頼んでわずかなお金を貸してもらい、バーガーキングでハンバーガーを買い、ただひたすらニューヨークをテクテク歩くという、情けない観光旅行だった。
今回は彼女と一緒である。しかも彼女は、ニューヨークに三年ほど住んでいた経験もある。当然英語もペラペラで、私はただ彼女のあとを金魚のウンコみたいにくっついて歩くだけだったので、娼婦にお金を盗られるなんてことはないので安心だった。
それにしても、ニューヨークはまったく変っていた。今回は私一人で来ても、娼婦にお金を盗られるなんてことはなかっただろう。それに道にウンコをする人なんて、まったくいない。マリファナを売る人も、観光客からお金をもらおうという乞食もいない。
彼女がニューヨークに最後に来たのは五年前だそうだが、そのころに比べても、ニューヨークはガラッと変ってしまったそうだ。
ニューヨークの市長がコッチからジュリアーニとかいう警察官僚出身者に代り、警察官の数をものすごく増やし、ニューヨークを安全な町にしたのだが、警察の力が強くなって、まるでナチスのようだと言う人もいた。制服の警察官だけでなく、私服も大勢いて、ちょっとでも怪しい人はすぐ職務質問される。ときどき無罪の黒人が警察官に殺されることもあるという話だ。まるでゲシュタポである。道でウンコしてたアル中や、ドラッグ中毒でフラフラしてた人達は、どこに行ってしまったのだろう。
彼女の友達の写真家に会った。彼は十代の死刑囚の写真を撮っていて、その写真を見せてもらった。
アメリカでは十六歳から死刑になる州がある。それを十三歳まで引き下げようという動きもあるそうだ。
手錠をはめられニコッと笑っている十代の死刑囚の写真を見て、私は胸がつまる思いがした。中にはちょっと不気味な顔の男の子もいるけど、ほとんどは普通のティーンエイジャーだ。その写真の子供の中には、もう殺された人もいる。
死刑の方法は、毒殺、ガス、電気椅子、絞首刑、銃殺の五種類があって、刑務所によってその方法が違うらしい。毒殺は十分間ほどかかるので、希望は銃殺が一番多いそうだ。
死刑執行の部屋の写真もあった。毒殺の場合は、皮のベルトがいくつもついた台があって、両腕に当るところは、十字架のように左右に出ている。左右から看護婦さんが死刑囚の腕に毒の点滴を打つのだが、途中で点滴が外れて死刑囚が暴れることもあると言う。ガラスの向こう側には、死刑囚の家族が座る椅子がある。そのうしろに、マジックミラー越しに被害者の家族が座る椅子がある。被害者の家族は、死刑囚が殺されるところと、それを見て嘆き悲しむ家族の両方を見ることができるというわけだ。まさに目には目をである。
死刑囚には黒人が多い。貧乏な黒人の家庭に生まれると、自給三ドル何セントかのマクドナルドの店員しか仕事がない。銃は二十ドルから買える。その銃を金持ちに向ければ、何百ドルかになる。死刑囚の多くは、そういった黒人である。何も問題は解決されないまま、目には目を方式でかろうじて安全が保たれている。
アメリカの地方に行くと、子供がピストルを持って学校に行っているところもあると言う。親が子供に銃をプレゼントすることも、珍しいことではないそうだ。
写真家は、アメリカの化粧の下の顔を見たようだ、と言っていた。その写真家も、南部の田舎に行ったとき、いきなり銃を向けられたそうだ。よそ者には、挨拶の代りにまず銃である。そんな乱暴な国で起った今回の銃乱射事件だが、銃の問題が取り沙汰されても、目には目を思想がある限り、銃は一向に減らないのだろう。
インターネット毒物配達事件
「末井クン、原稿。今度なんにする?」
櫻木さんからの電話である。
「まだ何も考えてないですけど。何かいい事件ありますか?」
「いろいろあるじゃない、インターネットのやつとか。末井クン、新聞とか週刊誌読まないの?」
「ええ、あんまり……。それに、正月はバリ島に行ってたもんで」
「ダメだなぁ、いっぱいあるよ事件は。もう締切りだから、なんにするかだけでも決めてよ。南さんにイラスト先に頼んどくから」
「じゃあ、インターネットのやつでいきますか……」
と言ってしまったのだが、考えてみると、正直言ってこの事件に関して、書くことはあまりないのである。そんなことを最初に書いてしまうと、身もふたもないのだが、書くことがないような事件と言ったほうが、責任逃れできるのでいいかもしれない。それが証拠に、週刊誌を数冊買ってきて見ているのだがつい先月の事件なのに、この事件のことはどこにも載っていないではないか。
要するにこの事件は、常日頃自殺したいと思っている人がいて、そういう人に向けたホームページがあって、そこで青酸カリの入ったカプセルを売っていて、それを申し込んだ人が何人かいて、そのうちの一人がそれを飲んで死んで、それを知った送り主も青酸カプセルを飲んで死んでしまった。もともと死にたいと思っていた人が、ちょっとしたきっかけで自殺した。それだけのことなのだ。
自殺者は年々増えているようで、去年は二万五千人以上の人が自殺しているらしい。自殺が珍しいことではないのだ。
自殺というと、私の母親も自殺したのだが、青酸カリみたいな地味なものではなく、ダイナマイトでドカンと死んでしまった。しかも、近所の若い男を道ずれにして、抱き合ってセックスしながら、その間にダイナマイトをはさみ爆発したのだが(推定。なにぶんバラバラになってしまったので分からないが、たぶんそうだったと私は思っている)、どうせ自殺するのならこのくらい派手なことをしてくれれば、それなりに感動のようなものがあったのではないかと思う。『無駄な苦しみを味わう事なく、安楽に、そして確実に逝きたい。誰もが願う事でしょう。』だと、甘えるのもいい加減にして欲しい。死ぬときまでそんなに楽がしたいのかと言いたい。
私の母親の場合、自殺する直前まで生きていたような気がする。当り前じゃないか、と言われるかもしれないが、このインターネット毒物宅配事件に登場する人たちは、自殺する前に本当に生きていたのかどうか私には分からない。生きるということは、呼吸して血液が循環している状態を言うだけではないのである。魂が生きていないと、本当に生きているとは言えないと私は思う。そういう人が自殺すると、なんらかの感動があるものだが、生きていることが希薄な人が自殺しても「あ、そう」で終ってしまうのである。
生きていることが希薄と言えば、神奈川県の伝言ダイヤル事件の加害者も被害者も、生きていることがすごく希薄な感じがする。突然話題が変って申し訳ないが、インターネットの件は本当に書くことがないのである。
加害者の星野克美という人は、サラ金に二百万円ほどの借金があったそうだが、それが原因かどうか分からないが、もしそうだとしたらそんなもの踏み倒してしまえばいい。自慢じゃないけど、私は二億以上の借金があったが、かなりの額を踏み倒してしまった。と書くと、私は悪い奴のように思われるが、人にお金を貸して踏み倒されてもいる。
借金を踏み倒すのは、真面目な人ならかなりエネルギーがいることは経験で分かる。私の場合は相手が銀行だったので、かなり紳士的に対応してくれたが、サラ金だと気分的にかなり追い詰められるかもしれない。しかし、命まで取る訳ではないし、いざとなれば破産するという方法もある。
まぁ、返す意志があるんだったら、二百万ぐらいなら働いて返せないこともない。女の子一人からせいぜい二、三万円ぐらいしか取れないんだから、働いたほうが効率がいいと思うのだが。
睡眠薬か精神安定剤かの薬を、女の子がなんの疑いもなく肌がきれいになる薬だと思って飲んでしまうことも、生きていることが希薄な気がする。それとも、みんな馬鹿になってしまったのだろうか。
薬を飲ませて、眠ったらお金を取って、あとはゴミみたいに車の外に放り出す。放り出された女の子は、眠ったまま凍え死んでしまう。加害者は、殺人をしたという意識さえないし、死んだ女の子は殺されたという意識もない。もうお互い、最初から死んでいるようなものだ。
それに比べると、和歌山の林真須美さんはずいぶん濃いし、ここまで黙秘を続けると、思わず「がんばれ」と言いたくなる。
ジャイアント馬場の思い出
事件ではないけど、一月三十一日、ジャイアント馬場が亡くなった。
「今月は、ジャイアント馬場のことを書きます」と、例によって櫻木さんに電話すると、
「あ、そう。思い出ね。会ったことあるの?」と、櫻木さんは言う。
「いや、会ったことはないんですよ、見たことはあるけど」
「あ、そう。僕は会ったよ」と、櫻木さんはちょっと自慢気に言った。
「GYANGの取材で会ったんだよ」
「で、どうでした?」
「いや、いい人だよ。大らかと言うか。掲載誌を送ったんだけど、やけに裸が多い雑誌だなぁって周りの人に言ってたって」
「寛容ですね」
「そう。それでスターのブロマイドを二十枚ほど持って行って、どの人を知ってるかって聞いたら、倍償美津子と山口百恵しか知らなかった」
「倍償美津子だけだったら、もっと面白かったですね」
私は、櫻木さんがジャイアント馬場に会ったと聞いて、ちょっと悔しい気持になった。櫻木さんには言わなかったけど、私はジャイアント馬場には会ったことはないけど、ブッチャーにインタビューしたことがあるし、ラジャ・ライオンと一緒に旅行したこともあるし、高田馬場のそば屋ではよくラッシャー木村を見かけるし、同じく高田馬場の路地で、夜中にキラー・カーンに出くわしたっこともある(このときは恐かった)。
ブッチャーにインタビューしたときは、上杉清文和尚の勧めで、ケンザンと千枚通しを持って行って、これを凶器に使ってくれと言ったら、それをジッと見て、これは使えないと真面目に言ったのがおかしかった。
ラジャ・ライオンとは、九州にUFOを見に行った。UFOがよく出る場所があるということで、全日本プロレスの解説をしていた山田さんに頼んで(その山田さんも昨年亡くなった)、宇宙人が出てきたときのために、用心棒としてきてもらうことにした。一緒に行ったのは週刊プレイボーイのトモジと、島本なめだるま親方、山田さんとラジャ・ライオン、大阪のアベノスキャンダルのアリタさんとその愛人という、ヘンな取り合わせだった。アリタさんが作ったUFOを呼ぶ機械を作動させたが、UFOは一向に現われなかった。山の上でみんなで手をつないで、「UFOさん、出てきて」と念じたりしたが、私はだんだんあほらしくなっていた。
山を降りると、村の公民館にご馳走が用意されていて、村の人たちが集っていた。私たちを迎えるため、というより、みんな大きいラジャ・ライオンを見るために集ってきたのだ。飲んだり食べたりカラオケをしたり、深夜までその宴会は続いた。
でも、なんで男たちは大きい人と一緒だと自慢したくなるのだろうか。お相撲さんを連れて赤坂あたりで飲んでいるタニマチの人たちも、周りをキョロキョロ見て自慢気だ。男は大きいものに憧れがあるのだろうか。
さて、大きいジャイアント馬場だが、私は残念ながら会ったことはない。ということはすでに書いたが、見たことは三回ある。私は、力道山が亡くなったあとは、プロレスがそんなに好きではないので、お金を払って見たのは一回だけである。あとの二回は、プロレス取材で一回、そしてなんと解説者で一回だ。
富士市の有線テレビが全日本プロレスを中継するということで、富士市の著名人でプロレス・ファンでもある上杉清文和尚に、解説者として出演依頼がきた。上杉さんは、どうせならみんなでということで、友達の私や南伸坊さんや平岡正明さんを誘ってくれた。
富士市の体育館に行くと、壇上に解説者の席が設けられていて、ちょっと緊張した。私はプロレスのことは、まったく知らないのだ。上杉さんは「末井くんは外人の味方になったらいいよ」と言うので、外人が出たら声援を送るという、なんだかよく分からない解説者になった。
最初の試合が終った頃、プロレス関係者が走ってきて。「やめろ!」と言う。あとで聞いたら、富士の有線テレビは、この日のセレモニーだけを中継するということで許可をもらっていたらしい。それをちゃっかり試合まで中継してしまおうというコンタンだったらしい。でもまぁ、そのいい加減さが面白かった。解説しなくてよくなったので、私は馬場とタイガー・ジェット・シンの試合を壇上から楽しむことができた。
プロレスの取材は、某スポーツ新聞からの依頼だった。プロレスは分からないですよ、と言ったのだが、分からなくていいです、と言うので、東京ドームの一番いい席で見させてもらうことになった。
試合が終ったあと、楽屋を見に行った。大勢選手がいたが、馬場さんはいなかった。すると突然、私の頭の上から「ごくろうさん」という声がした。うしろを見上げると、馬場さんの大きい顔があった。その声は、まさに天の声のような感じがした。
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