東京パチンカー&スロッター


『東京パチンカー&スロッター』という雑誌で、「この町でパチンコ」という連載をしていました。担当は松田義人君でした。
 この連載は、自分に縁りがある町に行ってウロウロ歩き回ったあと、その町でパチンコをして帰るというもので、自分が昔住んでいた町に行ったときは、感傷的になって胸がキュッとなったりしました。
『絶対毎日スエイ日記』にも引用しているので、読んでいただいた方もいると思います。(スエイ)


1 高円寺

 高円寺に来ると、すごく懐かしい気分になる。

 いまから二十六、七年前、高円寺といえば僕にとっての憧れの街だった。その頃、漫画やイラストを描いてエロ雑誌の出版社に持ち込んでいて、それなりに仕事はあったが、何か自分を表現しきれない感じがして、毎日モヤモヤしていた時期だった。すでに嫁さんはいて、嫁さんは私達が住んでるアパートの一階の、双眼鏡を作る小さな作業場で働いていた。僕はアパートにいると気が滅入るので、毎日喫茶店に行って何時間もアレコレ表現について考えていた。

 数少ない友達の一人が中央線沿線に住んでいて、その友達とときどき高円寺で酒を飲むことがあった。高円寺には、音楽関係や劇団関係の若者が住んでいて、そういう長髪の若者が集まる飲み屋がいっぱいあった。隣の阿佐ヶ谷には、漫画家の安部慎一が住んでいて、「美代子阿佐ヶ谷気分」なんていう漫画を描いていた。僕も『ガロ』に載るような漫画を描きたいと思っていたので、安部慎一に嫉妬したりしていた。

 そういう高円寺の文化的な雰囲気に憧れていて、僕もその中に入りたいと思っていたのだが、どうやったら入れるのか分からなかった。

 高円寺が懐かしいのは、それともうひとつ、好きな人が高円寺に住んでいたからだ。僕より十歳ほど年上の出版社に勤める人妻だった。その人はMさんの奥さんで、Mさんは以前僕が勤めていたデザイン会社の先輩で、僕が唯一尊敬していた人だった。僕が喋る訳の分からないデザイン論を、いつも真剣に聞いてくれていた。

 その年上の人との初めてのセックスは、その人のアパートでだった。Mさんはその夜は帰って来ないことになっていたのだが、どういう訳かMさんが帰ってきた。裸で布団の中で抱き合っていると、アパートの階段をゆっくりした足取りで、コンコンコンとMさんが上がって来る音がした。その人の顔色がサッと変わった。僕は、何か心臓がギュッと締めつけられるような気分になった。

 僕は、もうどうにでもなれという気持ちで、服も着ないで裸のまま布団をかぶっていたら、Mさんが部屋に入ってきて、布団をサッとはがした。裸で丸まっている僕を見て、Mさんは「君か……」と一言だけ言った。

 そのうち、隣の部屋でその人とMさんが言い争っている声が聞こえたが、僕の頭の中では、さっきMさんがつぶやくように言った一言がリフレインされていた。すごく寂しい言葉だった。

 そのうちMさんは一人で出て行った。階段をゆっくり降りて行くコンコンコンという音が、また聞こえた。いま思えば、僕は相当ずうずうしい嫌なやつだったようだ。

 高円寺に来ると、そういう昔のことがフラッシュバックしてきて、センチメンタルな気分になるのである。

 高円寺駅の北口を出ると、高円寺純情商店街の文字が見える。僕は、高円寺純情商店街という商店街があって、それをねじめ正一さんが小説にしたと思っていたが、逆だそうだ。ねじめさんは、「高円寺純情商店街」で直木賞を取り、詩人から小説家になった。

 この「高円寺純情商店街」の巻末に、「パチンコ大王」というパチンコ店の紹介がある。『経営者は中央線沿線に七軒も「パチンコ大王」という店を持っている大金持ちだそうだが、その姿を見たことはない。商店会の集まりに出てくるのは派手な身なりをした通いの支配人で、従業員はしょっちゅう入れ替っている。』とあって、昔ながらのパチンコ店の感じがして面白い。

 高円寺は純情商店街のほか、庚申通り商店街、あずま通り商店街、高円寺中通商栄会と、商店街が多いのが特徴だ。日用品や食料品を売る店はもとより、古本屋や中古レコード店や古着屋もある。そのせいか、商店街にも若者が多く、昔は長髪だったがいまは茶髪の若者がブラブラ歩いている。

 商店街から横道にそれて、昔好きだった人が住んでいたアパートがあったあたりに行ってみた。アパートはマンションに替わり、その人が住んでいたアパートが、どこにあったかも定かではなくなっていた。僕があの人を好きになったのは、あの人が高円寺に住んでいたからかもしれない、なんて思ったりした。

 高円寺駅南口に回り、高円寺PALに入った。ここは天井が高いアーケード街で、ゆったりした商店街になっている。そのゆったり感が、タイムトリップしたみたいな気分になって、さらに懐かしい感じになる。

 懐かしいといえば、この商店街にあるパチンコ店には、「春一番」や「フィーバーパワフル」や「ビッグシューター」といった懐かしい台がまだ健在だ。ブラブラ歩いたあと、長仙寺前にある名曲喫茶ネルケンに寄る。ここも時代が止まったようなところだ。

 そのあと、パンドラで「フィーバークイーン」を4時間打った。この台が出た頃、よく大塚のパチンコ店でこの台を打っていた。その頃のことを思い出しながら、またまた思い出に浸ってしまった。3回大当たり(1回連チャン)で、マイナス1万円だった。

 


高円寺純情商店街入口。
純情という言葉が嫌味じゃない。


本が外にこぼれ出そうな古本屋。


昭和30年代あたりで
時間が止まってしまったような名曲喫茶ネルケン。


このダンススクールも相当時間が止まっている。

 
早い! 安い! うまい!
これで文句がある人はいるのだろうか。


タイムトリップできる場所、高円寺palの入口。
ここに入ると、どこか地方都市に行った気分になる。


天井が高い高円寺palアーケードの中。
ゆったりした気分になる。

 
高円寺の猫たち。


都会のド真中というのに、まだこんな井戸がある。


高円寺はどうして阿波踊りなんだろう。
私はまだ見たことないが、
相当の阿波踊りキチガイがいるとか。


2 平間

 南武線は川崎と立川を結んでいる電車で、多摩川沿いに走っている。山手線や中央線で使い古された電車が回ってくるらしく、ちょっと前は茶色の薄汚れた電車が走っていた。沿線には安アパートが多い。

 昔、南武線で通勤していた頃、立川方面から乗ってきた二人組のオジサン達が、タバコを吸いながら「あしたはあしたの風がふかぁ」なんて話していた。たぶん競輪で負けたのだろう。車掌が回ってきて、「車内ではタバコは吸わないでください」と注意すると、「なにぃ、おめぇはオ○○コしてる最中にやめろと言われてやめられるかぁ」と、一人のオジサンが真剣な表情で言ったので、僕は思わず笑ってしまった。乗客も、山手線や中央線とはずいぶん違うなぁとそのとき思った。

 南武線の平間は、僕がこっちに出てきて最初に住んだところだ。

 岡山の高校を卒業して、同級生と二人で大阪の枚方市にあった工場に就職した。工場は山奥育ちの僕には近代の象徴のようなもので、憧れでもあり希望でもあった。しかし、いざ現場で働いてみると、想像とはずいぶん違っていた。昼夜三交替で、安い給料で奴隷のように働かされ、入社三カ月後にはもうやめてしまおうと思うようになっていた。

 それから、月賦でテレビやステレオを枚方の電機店で買いまくり、それを寮の同僚に売りつけ、わずかなお金を作り、夜勤明けのある日、フトンを背負って寮を飛び出した。行き先は、父親が出稼ぎに行っていた川崎の平間だった。

 鈍行に乗って平間まで辿り着いたのだが、問題は改札をいかにして通り抜けるかだった。切符を持っていなかったからだ。しかし、切羽つまると神様が味方してくれるもので、ホームの端のすぐそばには踏切りがあるではないか。人がいなくなるのを待って、僕はフトンを担いで線路に飛び降りた。こうして、僕はこの町で二年余り暮らすことになるのだった。

 父親は三菱重工川崎自動車製作所で働いていた。社員の誰もが嫌がるバラシという一番きつい職場に、人足会社から派遣されていた。その三菱重工に、父親の口ききで僕は社員として入れてもらった。

 僕の職場は、父親の職場とは正反対で快適で楽だった。トラックのボディーを一台持ってきて、大きい定盤の上に乗せ、一週間かけてそれが図面通りにできているか測定する仕事で、一日二、三時間仕事をして、あとは居眠りをしていればよかった。計器が狂うから部屋は冷暖房完備だったので、気持ちよく居眠りができた。

 昼間居眠りができるので、朝は牛乳配達をし、夜は目覚まし時計の組立ての内職をした。お金をためてデザイン学校に入る目標があったからだ。

 そのうち、疲れ切った父親とアパートで一緒に暮らすのが嫌になって、少しお金がたまったところで、僕は下宿することにした。三畳一間で家賃は三千円だった。机を置いたら寝る場所がなくなり、僕は押入れで寝ていた。その下宿で、僕の奥さんになる人と出会うことになる。

 三菱重工は一年ほどでやめてデザイン学校に通い出したのだが、学校がつぶれてしまった。そのあと、デザイン会社に勤めたが、そこもすぐやめてしまった。わずか二年余りの平間での生活だったが、めまぐるしく生活が変化したので、凝縮された思い出がそこにはある。

 取材に行った日は、いまにも雨が降りそうな日だった。平間の駅は、改札が自動改札機になったぐらいで、三十二年前と何も変っていなかった。駅を出ると少し雨が降ってきたが、傘をさすほどでもなかった。

 僕が父親と住んでいたアパートがあったあたりに行ってみたが、建物はまったく変ってしまっていて、下宿していた家も、すでになくなっていた。日曜日、いつも土手でボーッとしていたガス橋あたりに行ったあと、また住宅街を歩き回ったが、歩けば歩くほど、センチメンタルな気分になってくる。二年半前に奥さんと離婚したことも、センチメンタルになる原因だろう。小さな建売り住宅やアパートがひしめき合い、小さな幸せが散らばっているこの町は、建物は変っていても昔と変らない労働者の町だ。

 僕は東京に出ようと思って、東京から少し外れたこの平間に住んだ。工員からグラフィック・デザイナーになろうと思ってデザイン学校に通ったが、学生運動で学校がつぶれて、デザイン会社に少し勤めたあと、やはり少し外れてキャバレーの宣伝課に入ってチラシを作ることになる。イラストレーターになろうと思ったが、やっていたのはエロ雑誌のイラストだった。編集者になってからも、作った雑誌は本線から外れたものが多かった。パチンコ雑誌もそうだ。僕がやっていきたことは、いつも本線からちょっと外れたことばかりだったが、いまとなってはそれがよかったのではないか、なんて思いながら平間を歩き回った。

 平間にはドンドンとワールド7という二軒のパチンコ店があったが、ワールド7の方で「ナナシー」を打った。一時間ほどで濡れていた服も乾いてきた。隣のオバサンが、僕の台にリーチがかかるたびに話しかけてくる。僕は平間の住人になったような気分になっていた。四時間打って八回大当たりしたが、マイナス五百円だった。

 


このホームから飛び降りるとすぐに踏切りがある。


平間には公衆電話が似合う。
昔、ドテラを着て深夜うずくまって
電話してる女の子がいたりした。


すごく小さい人がやっている
のではないかと思われる製作所。


自転車と花。まるで芸術のよう。


平間のネコ。


やはり共産党か、公明党か。


ガス橋。川の向こうは東京。
橋の下に労働者が集まって何かやっていた。


わびしさひとしおの平間らしい呑み屋。


大きなパチンコ店ドンドン。看板に迫力がある。


3 祐天寺

 今回は祐天寺である。なぜ祐天寺かというと、僕が東京に出てきて、平間の次に住んだ街が祐天寺だからである。

 祐天寺は渋谷に近いということで、高級住宅地になっていて確かに大きなお屋敷もたくさんあるのだが、ボロボロのアパートも多く、ちょっと不思議な感じのところだ。

 僕が住んでいたのは三十年も前のことで、そのことはもっと木造のアパートが多くあった。

 僕は三菱重工をやめ、デザイン学校をやめ、革命的デザイナーになろうと、キャバレー・チェーンの宣伝課に入ったころで、低賃金ながら収入が安定しだしたので、奥さん(籍は入っていなかったが)と暮らすアパートを借りたのだった。敷金、礼金はたぶん奥さんの貯金を遣ったと思う。

 革命的デザイナーといっても、読者にはなんのことか分からないと思うが、カッコ良さだけを追求する広告デザイナーではなく、人間の欲望に訴える情念的デザイナーになろうと思っていたのだ。それにはキャバレーこそ最適の場所だと思って入ったのだが、やっていたことは「お色気モミモミもみじ祭り」といった、あほらしくなるようなチラシのデザインや、ホステス募集の新聞広告などで、一年ほどで完全にやる気をなくしていた。

 ある日、看板に遣う真っ赤なペンキを大量に持ち出して、全裸で上野を走り回ったあと、そのペンキを頭からかぶり、道をゴロゴロ転げ回って、次の日からキャバレーの宣伝課に行くのはやめた。なんでそんなことをしたのかよく分からないが、表現みたいなことにこだわっていたものが一気に爆発したのではないかと思う。

 キャバレーをやめて、僕は失業者になってしまった。生活費がないので、奥さんはアパートの一階にあった双眼鏡のケースを作る工場につとめた。僕は、真夏の暑い四畳半で、これからどうしようかと悶々とした日々をおくっていた。昼ごろ起きて、アパートの下を見ると、奥さんがモクモクと仕事をしている。なんだか俺たちは最低の生活をしているみたいで、悔しいような、情けないような気持ちで涙が出てきた。

 一ヶ月くらいして、ガラス板にクラシックカーとか虎とかの絵を描いて、それに金箔を貼った装飾品を作る仕事を始めた。仕事といっても内職のようなもので、アパートで作ったものを本部に持っていって、一枚一枚検査を受けて買い取ってもらうのだが、きれいに仕上げてないと買い取ってもらえないので、そんなにお金にはならなかった。

 しかし、その仕事でガラスに金箔を貼る技術を覚えた。技術といってもそんなに大層なものではなく、一枚何十銭かの金箔を、ちょっとしたコツでガラスに張り付けるだけなのだが、これで商売できると思って、祐天寺の不動産屋や質屋に金文字の営業に行った。

 ほとんど断わられ、やっと一軒の質屋が金文字を描かせてくれることになった。一文字三千円だというと、質屋のオヤジは「高いなぁ」と言う。「金ですから」と言うと納得してくれて、五文字描いて一万五千円もらった。そのころの一万五千円というと、いまの七、八万だろう。超貧乏だったので、このお金は嬉しかった。その夜は奥さんと、久しぶりに御馳走を食べた。

 そのあと看板屋になった。キャバレーのときの知り合いが、池袋のピンクサロンの店長になっていて、看板を描かないかと言ってくれたからだ。金文字の仕事もなかったので、僕は喜んでその仕事をすることにしたが、問題は仕事場だった。仕事場を借りるお金なんかなかったので、仕方なくアパートで看板を作ることにした。ベニヤと小割を買ってきて、四畳半のアパートでトントン看板を作って、水性のペンキで絵と文字を描く。一枚三千円だった。それを夕方電車で池袋まで運ぶのだが、ちょうどラッシュ時間帯でみんなから嫌な顔をされた。僕は必死だったので、「文句あるのか」といった感じで、乗客を睨みつけていた。

 垂れ幕も頼まれ、クラウン娘がナントカとか描いた垂れ幕を、アパートの窓からダラーンとか干していたら、大家が飛んできて「何をやってんですか」と言われた。

 そういう思い出に浸りながら祐天寺を歩き回った。昔の面影があるところが結構あって、懐かしかった。住んでいた木造のアパートハ、プレハブのアパートに変わっていた。僕が金文字を描いた質屋はまだあって、きれいなショーウインドーの店になっていた。その話をいまの奥さんにすると、「金文字のおかげなんじゃない」と言ってくれた。

 恒例により、祐天寺でパチンコをした。祐天寺でパチンコというと、僕が生まれて初めてパチンコをしたのがこの町である。その頃はまだチューリップだけの台だったのだが、なけなしの何百円か負けて、それ以来二十年近くパチンコはしなかった。

 駅前の「万両」という店に入ると、ハニーフラッシュ3があったので打った。古い台でこれも懐かしかった。

 

 


30年前に住んでいた木造アパートは
プレハブに変わっていた。


こういう大きなお屋敷もある。


ボロボロのアパートも多い。


隣の家に食い込んだ小さい家。


こういう停め方はヤクザか。


「ぬじ式」みたいなカレー屋。


祐天寺のニワトリ。


4 高田馬場

 高田馬場駅の改札を出ると、駅の構内に賞味期限の切れたコンビニ弁当をサカナに、ワンカップで朝から酒盛りしている浮浪者が、通り過ぎる一人一人を指差し、意味不明の演説をしていることがあるが、関わると面倒なので、目を合わさないように通り過ぎるようにしている。

 駅を出るとそこはガード下で、手塚治虫のアトムの絵が壁面いっぱいに描かれているが、そのあたりは異様な臭いがするので、立ち止まってそれを観賞する人は誰もいない。

 その異様な臭いは、浮浪者がした小便や、深夜酔っ払いが吐いたゲロなどの臭いと思われる。雨の日は、さらに臭いがきつくなり、そこで毎日ティッシュを配っているサラ金のお姉さんも大変である。このガード下に、ホームのゴミ箱から持ってきた雑誌を百円で売っているオジサン・グループが何組かいて、戦後の闇市的な雰囲気もあってなかなか活気があるのだが、通行のジャマになる。

 通行のジャマといえば、よく肩からギターケースをぶら下げて、二、三人で横一列でダラダラ歩いている茶髪の若者をよく見かける。高田馬場にある日本で唯一のヘビメタ専門学校(西原理恵子さん命名)の生徒さんだが、急いでいるときは、そのダラダラにイライラしながら、よけいなお世話だと思うが、彼等の未来をちょっと心配したりもする。

 駅から一番近い繁華街は、栄通りである。この通りにはパチスロ店が二軒、安い飲み屋や食べ物屋や風俗店がひしめき合っていて、四月の入学シーズンになると、一気飲みで酔っ払って、パンツを見せてひっくり返っている女子大生がいたりして、その周りを四、五人の男子学生が取り囲み、体をさすって介抱しているのだが、なんだか目がギラギラしているようで、こういうところをその女子大生の親が見たらなんと思うのだろう、なんてジジくさいことを考えたりすることもある。

 この栄通りを、高田馬場界隈ではモトスリ通りと呼んでいるらしい。この通りで商売するのはなかなか難しいようで、店がしょっちゅうつぶれている。つい最近も、僕がときどき行っていた河童飯店という中華料理店がつぶれた。この通りに店を出すと、モト金もスッてしまうところから、モトスリ通りになったそうだ。

 何年か前、好きだった女の子と高田馬場駅前で待ち合わせしたことがあるが、その女の子は高田馬場へは初めて来たそうで、ガードにもたれてゴミのように眠っている浮浪者を見ながら、「私、ここには住めな〜い」と言った。そんなことを言われると、ついつい高田馬場の肩を持って、「住んでもらわなくても結構」なんて思ってしまうのは、僕が長年この町とつき合っているからなのだろうか。高田馬場とのつき合いは、かれこれ二十五、六年にもなる。きたない町だが、二十五、六年も通っていると、それなりに愛着がある。

 初めてパチンコをしたのも、高田馬場だった。駅のすぐそばにあった宇宙会館というパチンコ店で、スタジアムという羽根物を打って、千八百円勝った。パチンコは勝ったらクセになるもので、次の日もその店に行き、また少し勝った。こうして一カ月後には、毎朝パチンコ店に出勤する、立派なパチンコ中毒者になっていた。そして『パチンコ必勝ガイド』を創刊することになるのだが、最初に勝たなかったら、おそらく『パチンコ必勝ガイド』は世になかったのではないかと思う。

 今回の取材は高田馬場にしようと決めたとたん、ちょっと気抜けしてしまった。一応取材の日を決めて、カメラを持って歩き回ったのだが、十五分ぐらいで飽きてしまって、パチンコをすることにした。話のなりゆきとして、僕が最初にパチンコをした宇宙会館(現在は大きいビルになってコスモという名前に替わったが)で打つべきだろうが、『パチンコ必勝ガイド』編集部に一番近い東陽会館にパールセブンがあったことを思い出し、それを打つことにした。

 パールセブンのシマは、常連さんが多く、いつも半分以上はお客がついている。この台には攻略法があって、以前『パチンコ必勝ガイド』で発表して大反響になった。。

 詳しい攻略法を説明するスペースはないのだが、中デジタルに8つのパターンがあり、赤数字が多いパターンになったら連続回し、緑数字しかないパターンなら単発回しにするという簡単な方法だが、これで確率150分の1になるのだ。

 ただし、東陽会館は高交換率のため、連続回しができないので、この攻略法は使えない。

 三千円投入、デジタル53回転で1のリーチがかかり大当たり。スライド・アタッカーが左右に開き、玉の流れが替わる。パンクするのではないかと思うほどアタッカーには玉が入らず、その分アタッカー開放時間目一杯まで、オマケ・チャッカーに玉が流れる。出玉五千個ぐらいありそうである。

 以下の展開は表の通りだった。

 


高田馬場駅前。まるで香港のビルのような感じだ。


高田馬場駅前広場。浮浪者が多い。


高田馬場ガード下の手塚治虫の絵。誰も見ない。


栄通りの名物八百屋。怪しい貼り紙がいっぱい。


その貼り紙を書いているご主人。
マスコミにも登場したことがある有名人。


高田馬場を転々とし、
いまは立派なビルになった白夜書房。


パチンコ編集部に一番近いホール、東陽会館。


5 池袋

 僕が池袋のロマンス通りのピンクサロンで看板を描いていた一九七〇年ごろは、風俗はクロートの世界だった。ピンクサロンで働いているホステスさんもみんなワケアリで、そこで働く一番の理由は経済的問題だった。

 僕は池袋で看板を描く前は、上野のキャバレーの宣伝課に勤めていたが、僕らが働いている部屋の隣は託児所になっていて、ときどき子供が這い出してくることもあった。みんな父親がいないわけで、そういう子連れのホステスさんの為に大きな寮も作っていた。キャバレーにくるお客さんの中には、店が終わったあとホステスさんと寿司屋とかでデートして、あわよくばそのあと……と考える人も多く、ラスト寸前になると「あそこの寿司屋で待ってるからさ」とか、あわててホステスさんを口説く人がいるが、託児所には子供がいるし、十二時半には寮に帰るマイクロバスに乗らないといけないし、デートなんかできるわけがない。でも断るのも悪いので、ホステスさんは「じゃあ、あとから行くから待っててね」とか平気で嘘を言う。何時間も待っても結局こなかったということになるのだが、それでもお客さんはまた店にくる。お客さんも寛容というか、余裕があった時代で、水商売とはそういうところだと思ってもいたのだろう。

 僕が池袋のピンクサロンで看板を描くようになったいきさつを書くと長くなるし、以前にも書いたので省略するが、一枚三千円のイラスト入り看板は評判がよくて、結構毎日忙しかった。クリスマス・シーズンになると店はかき入れどきで、メニューがすべて倍の値段になったりしてその描き替えをしなくてはいけないし、特に忙しくなる。「高過ぎる」とかクレームを言うお客さんもいて、店長がそういうお客さんを僕が看板を描いていた地下室に連れてきて、「お前、遊んでて金払わねぇはねぇだろう」とボカッと殴ったりしていた。ずいぶん乱暴な話だが、そういう恐いところもあるのが風俗の世界だった。

 池袋の昼サロに友達と入って、ビール二本飲んでホステスさんと話をしただけで三万円請求されたこともある。なんで三万円の値段になるのか分からなかったが、その理由を聞くとタダでは帰れない雰囲気があった。いまなら、そういう店は暴力バーとかキャッチバーということになるのだろうが、もともと風俗の世界は不条理なもので、僕はそれが面白いとも思っていた。

 風俗が明るく明瞭料金になったのは、ノーパン喫茶以後である。ノーパン喫茶といっても、もう若い人は知らないだろうが、一時期山手線の各駅には必ずあったというほどポピュラーなものだった。ウェイトレスがパンツを履いていないというだけでコーヒーが千円もしていたのだが、それでも当初はお客さんで満員だった。ノーパン喫茶は二、三年で消滅してしまったが、そこで時給何千円かの収入を得ていた女の子たちは、もう元には戻れなくてヘルスだのノゾキだのに流れて行く。風俗店で働く女の子たちがクロートからシロートになったという意味では、ノーパン喫茶がもたらした功績は大きい。

 と、ついつい風俗の話になってしまったが、池袋の町を歩いていると、やたら風俗店ばかりが目につく。特にロマンス通りあたりには風俗店が多く、僕が看板を描いていたピンクサロンがあったところは「若妻エステさくらんぼ」とかいう店になっていた。この通りにはパチンコ店も多いのだが、風俗店と並んでいるので、つくづくパチンコも風俗なんだなぁと思う。

 山楽会館もロマンス通りにある。いまはきれいなビルになって、「パーラー」という感じになったが、以前はそんなにきれいな店ではなかった。山楽会館といえば、パチプロの田山幸憲さんが長い間ネグラにしていた店で、僕は一九八八年に山楽会館の裏にあったネスパという喫茶店で、初めて田山さんと会った。そのころはパチンコの世界も風俗の世界と同じように、クロートの世界というか、何かヤバイ世界のように僕は思っていたので、初めてパチプロと会うということで少し緊張していたと思う。

 そのころ田山さんは、山楽会館の地下で「ロボQ」という羽根ものを打っていた。その「ロボQ」を一目見ようと、田山さんと別れたあと山楽会館の地下に入ってみた。「ロボQ」は一番奥のシマの一番端っこに三台ほどあったが、あまりにも地味な台だったので逆にクロートっぽい感じがして、職人が使う道具を見ているような感じだった。

「パチンコ必勝ガイド」で「田山幸憲のパチプロ日記」が始まって、毎月池袋で田山さんと会うようになって、僕もよく山楽会館に行った。そこの地下は羽根ものばかりあって、店員のオバサンが声をかけてくれたりするアットホームな感じで、田山さんがそこをネグラにしている理由が解ったような気がした。

 取材の日、きれいになった山楽会館に入ってみると、新台の「CR笑ゥせぇるすまん」が入っていて、空台が一台あったので座った。回りは20回とちょっとで、そんなによくはない。7000円遣ったところで隣のカド番が空いたので移動、9500円遣って214回転めで確変を引き、5連チャンした。そのあと100回ほど回して、地下に降りて羽根ものの「モンキー倶楽部」を打った。500円で15ラウンドの大当たりを引き、一時間で2500個まで出した。いまは羽根ものの人気はなく、隣でオバァちゃんが打っているだけだったが、羽根ものを打っていると気持ちがなごやかになる。そして、ちょっぴり懐かしい気分にもなった。

 合計出玉11786個、換金35000円、18000円の儲けだった。CR機で勝ったあと、勝ちを守って羽根ものを打つなんてところはクロートっぽいな、なんて自分で思ったりしていた。

 


ロマンス通りもきれいになった。


山楽会館もきれいになった。


キャバレーだって昼間からやっている。


田山さんと最初に会った
喫茶店ネスパがあったところ。


昔から怪しい「夜の貴婦人」。
恐くて入ったことがない。


池袋のネコらしい池袋のネコ。


このビルの屋上の一軒家に住んでみたい。


6 向ケ丘遊園

 取材に行く日、八時に目覚まし時計を合わせていたのだが、無意識に止めていたようで、目が覚めたら十時半だった。もうパチンコ店は営業している時刻だと思うと、ちよっとやる気がなくなってしまったが、スケジュールを考えると、今日しか取材する日がない。

 向ケ丘遊園は、別れた奥さんと二十年も暮らした町なので、僕にとって郷愁や哀愁が一番ある町だ。だからこの連載の一番最後にとっておこうと思っていたのだが、いつもは何も注文しない担当の松田君が、「次は向ケ丘遊園はどうですか」と言うので、「じゃあ行ってみるか」ということになってしまった。

「いってみるか」と言ったって、そう簡単には向ケ丘遊園には行けないのである。万が一、四年前に別れた奥さんにバッタリ出くわしでもしたら……。

 離婚の法的手続きは、家出してから一年後にしているので何も問題はないのだが、逢ったらなんとなくお互いきまりが悪くてどうしていいか分からないだろうし、僕に好きな人ができて勝手に家を飛び出したわけだから多少の罪悪感もあるし、恨まれていたら恐いし、やはりこのまま一生逢わないほうがいいと思う。目覚まし時計を無意識に止めたのも、潜在意識でそう思っていたからかもしれない。

 向ケ丘遊園には朝早く行き、朝一からパチンコを打とうと思っていた。『パチンコ必勝ガイド』を始めた頃は、毎朝地元のパチンコ店に開店前から並んでいた。午前中はまだ勝敗が決まっていないので、「今日はいくら勝てるだろう」なんて思いながら打っていると、ワクワクした気分になっていた。日曜日などは閉店まで打てるかと思うと、嬉しくてしかたなかった。そういう気分に、もう一度浸ってみようかと思っていたのだが、グズグズしていたら、出るのが午後の一時半になってしまった。

 溝の口から南武線に乗り換え、登戸に着いて駅を出たら雨が降っていた。あいにくの雨である。駅前の洋服屋さんで黒い傘を買い、「もし別れた奥さんが向こうから歩いてきたら、この傘でサッと身を隠そう」なんて思いながら、向ケ丘遊園の方にブラブラ歩いた。

 別れた奥さんは動物好きで、犬は三匹飼っていた。その犬の散歩コースがあって、そのエリアが近づいてくると、ドキドキドキドキしてくる。

 向ケ丘遊園の駅前は、花屋も洋服屋も寿司屋もいもっ子クラブも昔のままで、何も変わっていなかった。どこまで昔の家に近づくことができるだろうかと、肝だめしみたいなことをやってみたが、すぐにパチンコ店に逃げ込む結果となってしまった。パチンコ店の中に入ってしまえばもう大丈夫である。それにしても、なんでそんなにビクビクするのか、自分でもおかしい。

「ニューギンザ」というパチンコ店に入り、何を打とうかと店内を一巡してみたが、新台のCRドッカーは満席だし、レトロ台というのもないし、打ったことのなかったCRラーメン倶楽部を1000円ほど打ってみたが、いまいち打ちたい気分にならないし、さてどうしたものかと思っていたそのとき、CR大工の源さんがふと脳裏をよぎった。

 僕はCR大工の源さんが好きではなかったので、この台が大人気の頃もあまり打っていない。ハマリがきついので、かなり回りがよくないと、とても打つ気にはならない。神奈川は交換率が低く、ここらあたりは玉一個2円少々なので、その分よく回るだろうし、文章を書く上で小ツブの新台よりも、CR大工の源さんの方が面白いし、万が一大爆発でもしたら、文章に迫力が出る。

 ということで、CR大工の源さんの空き台を500円づつ三台打ってみたが、どれも思ったほど回らなかった。無制限としても、ちょっときつい。もしかして交換率が替ったのかもしれない。

 四台め、500円で19回。やっと勝負台を見つけたと思ったが、最初の回りは見せかけだったらしく、1000円で22〜23回しか回らなかったが、台を替るのも面倒になりそのまま打つ。

 8000円投入、189回転めで5のクレーンリーチがかかり、いきなり確変で大当たりした。「やった、大爆発か」と思ったが、5、2、ヘルメットと続いて、確変は最少の3回で終了。勝ってはいるが、2円少々の交換率では勝ちは何千円かである。これじゃあ文章にもしにくいので続行する。が、そのあと大ハマリにあう。たとえ設定3でも三箱あればなんとかなると思ったが、出玉全部とカードの残り1000円入れて、614回デジタルを回すが当たる気配すらなかった。大ヤケドしないうちに引き上げようと思って出口に向かったが、なんとなく未練が残り、3000円のカードを買い、入口側のカド番のCR大工の源さん100番台に座る。

 3000円のカードで当たるとは思っていなかった。当たらないことを確認して、未練を断つことが目的だったのだが、なんと1500円で当たってしまった。しかもマル源の確変絵柄である。文章を書く上でも、面白い展開になってきた。

 マル源、0、ハッピ、4、2と続き、ドル箱は五箱になった。お助け時短の100回転まで回し、さて、これからが問題である。計算上1万円以上は勝っているのでここで引くべきだろうが、なんとなくまだ大当たりが続きそうな気がするし、回りもさっきの65番台よりいいし、なによりもっとパチンコをしていたい気分だったので、一箱とカードの残り1500円までの勝負と決めて続行。

 お助け時短も入れて242回転めで、思った通り早い大当たりがきた。リーチはお祈りリーチ、絵柄は9である。

 大当たり終了。出玉は五箱だが、さっきより少し増えている。どうしようか考えたが、もう一回だけ一箱勝負することにした。

 正解だった。81回転でヘルメットの大当たりである。これでドル箱は六箱になった。絶好のやめどきである。今度は未練なくやめられる。時計を見ると、ちょうど七時だった。

 投入15000円。出玉12759個。換金45500円。プラス30500円。

 てっきり2・2円交換だと思っていたが、計算すると3・5686円だった。どうりで回りが悪いと思ったが、この交換率なら回している方だと思う。

 パチンコのあと、暗くなった町を歩いてみた。暗いと安心なので、元の家から数十メートルの距離まで近づいてみたが、なんでこんなことをしているのだろうと思い引き返してきた。

 後日、晴れた日にもう一回写真を撮りに行った。

 


向ヶ丘遊園駅前。


駐車場とパチンコ店。


即、お金。


意味不明のメッセージ。


赴きのある不動産屋。


向ヶ丘遊園のネコ。


昼寝。


通い慣れた道。右がニュー銀座。


7 駒込

 昔、駒込にあった小さなディスプレイ屋でしばらく働いていたことがある。今から三十一、二年前のことだ。

 子供の頃から絵を描くのが好きで、漫画家になりたいとか思っていたが、それは非現実的な夢だと思って諦めていた。ところが、グラフィック・デザイナーという職業があることを川崎の工場で働いている頃知って、これなら自分にもなんとかなるのではないかと思って、その頃やたらとあったデザイン専門学校に入ることにしたのだが、問題はお金がないことだった。それで、朝は牛乳配達、昼は工場勤務、 夜はアパートで目覚まし時計の組立ての内職と、寝る間も惜しんで働いて、やっと入学金が払えるほどのお金をためて、渋谷にあった青山デザイン専門学校というところに入学したのだった。

 ところが、半年ぐらい通ううちに、学生運動の余波というやつが小さなデザイン専門学校にも押し寄せてきて、生徒が学校封鎖とかをやり始めた。校舎の壁面に、ラーメンのドンブリの底に描いてあるような龍の絵が、赤いペンキで描かれだし、入り口はバリケードで封鎖され、中に入れなくなってしまった。真面目にデザインを勉強しようと思っていた僕にとっては、えらい迷惑な話である。苦労して払った入学金も、台なしになってしまった。

 学校に行けなくなった僕は、デザインを現場で覚えようと、新聞の求人欄にある「デザイナー募集」のところに片っ端から応募した。そして、受かったのが駒込にあったディスプレイの会社だった。

 僕はグラフィック・デザインをやりたかったのだが、仕事は遊園地やボーリング場や中古車センターの装飾のデザインだった。ときどき遊園地のポスターなどの印刷物のデザインも入ってきていたが、それは先輩のデザイナーが担当していて、僕にはその仕事は回ってこなかった。

 僕の頭の中は、そのころ読んでいた左翼系の本や、横尾忠則や粟津潔の本の影響で、観念的なデザイン論が渦巻いていた。単なる装飾でいいのに、ボーリング場の入口の空間が淋しいからなんとかしたいという仕事が入ると、天狗のお面をいっぱいぶらさげて情念的な表現をしたいとか言うものだから、先輩からは、まったく使いものにならない奴だと思われていたことだろう。そんな奴に仕事は任せられない。唯一任されたのが後楽園遊園地の中の蝋人形館のデザインで、これが完成したときは本当に嬉しかった。

 僕の話は観念的で片寄っていたので、誰も相手にしてくれなかったのだが、一人だけ話を聞いてくれる同僚がいて、その人とはよく喫茶店でデザイン論なんかを話していた。

 その同僚が会社をやめて、キャバレーのハワイ・チェーンに入った。仕事は、電車の中吊りや新聞広告、浴場ポスターなどを作るデザイナーということだった。しばらくして、その人が持ってきた、黒い太陽をバックにフェラチオをしている女がシルエットになった七色刷りの浴場ポスターを見て、これはすごいと思った。いくらキャバレーでも、よくそんなポスターを作らせたものだと思うが、僕はそのとき、キャバレーに行けば自分の好きなデザインが自由にできると思ってしまった。そして、しばらくして「退社宣言」なるものを会社に出し、僕もキャバレーのクィンビー・チェーンの宣伝課に入ることになるのだった。

 というのが、僕の駒込時代の話である。駒込に通っていたのは、一年半ほどだったと思うが、思い出に残っている場所というのは少ない。同僚とよく話をした喫茶店と、ときどき行って考えごとをしていた染井墓地と、お金もないのにフラッと入って、上着と時計を置いてきたスナックぐらいである。

 その駒込の町をブラブラ歩いてみた。大通りを少し入ると、小さな家がひしめき合っている住宅街で、僕が勤めていた会社も、そんな住宅街の中にあった。その会社があった方に歩いてみたが、やはり三十年経つと道を忘れていて、途中で迷ってしまった。小さな会社だったから、おそらくもうなくなっているだろうと思っていたのだが、ほとんど昔のままであったのである。その会社の前にしばしたたずんでいると、三十年という歳月が本当に一瞬だったような、不思議な感じになった。

 染井墓地に行ったあと、駒込会館でCRポヨヨン星人を打って二万一千円の負け、SPOSPOでCRスーパーコンビを打って二万円五千円の負け、CRウキウキ西遊キが三千円で当たったが単発で出玉交換、追加三千円で諦める。このところ、パチンコは本当についてない。

 パチンコ店を出ると、外は暗くなっていた。夜になるともう肌寒いが、パチンコで負けるとなおさら寒く感じる。ポケットに手を入れ、背を丸め、駅の方に急いだ。

 


32年前、この会社に勤めていた。


清元、小唄が唄える店。


見ただけで病気になりそうな薬屋。


お金を返さない不動産屋。


般若の面のあるアパート。


マンションと一戸建て。


塀の上の天使。


高台にある染井墓地。30人の有名人が眠っている。


駒込の犬。


昼下がりの駒込。老人がわいたように出てくる。


8 経堂

 祐天寺の四畳半のアパートから、同じく祐天寺の六畳+キッキンのアパートに越し、そして経堂の3DKのマンションに引っ越したのは、確か僕が二十六歳、妻が二十七歳のときだったと思う。

 そのころ僕は、出版なんでも請負業をやっていて、レイアウトでもイラストでも漫画でも取材文でもビニ本の撮影でも、頼まれればなんでもこなしていた。ほとんどがエロ本だったので単価は安かったが、手抜きでも文句は言われなかったので、数をこなしてかなり稼いでいた。

 出版社の仕事は、最初は清風書房というところの仕事だけやっていたのだが、その会社が倒産してしまったので、社員がいろんな出版社に散らばって行って、そこからまた仕事を頼まれるようになった。営業もしないのに、その倒産がきっかけで、いきなり仕事が増えたのである。

『深海鮫健康法』やら『紅茶キノコ健康法』とかの実用書を出していた出版社の社長から、明日の朝までにイラスト五十枚描いてくれと言われれば、「無理かな」と思いながらも引き受けてしまう。

 そういう場合、まず締切までの時間を五十で割り、一枚あたり何分で描かないといけないかを計算する。そうすると、一枚十五分とかになる。しかも、休憩なしである。

 本のゲラ刷りをもらっていて、本来ならその文章ジックリ読んで、それに見合ったイラストを描かないといけないのだが、そんな時間はない。ゲラ刷りをパッパッと見て、目に入った言葉で絵になりそうなものを選んで描くのだが、資料を見る時間もないから、相当いい加減なイラストだった。ときどき古本屋で、僕が描いたイラストが載っている実用書が売られていたりするが、手に取って見るものの、懐かしむ前に恥ずかしくなってすぐ本を閉じてしまう。

 そういう、急を要する仕事のときの敵は睡魔である。朝方四時、五時になってくると、どうしてもマブタが落ちてくる。そういう場合はセロテープを目尻に貼り、マブタが落ちて来ないようにする。それでも頭がボーッとして、イラストの線がフニャフニャになったりすると、ペン先で手の甲をチクチク刺していた。

 持って行く時間までに終らなかったら、小さな製図版を持ってタクシーに乗り、タクシーの中でイラストを描いていた。揺れれば線がゆがむが、まぁそれも味である。

 こうして締切りだけはキチッと守っていたから、その実用書の出版社の社長からはすごく喜ばれていた。この会社は自転車操業で本を出していて、著者のほとんどがその社長で、名前を適当に替えて書いていた。新聞の片隅に「深海鮫のエキスが癌に効く」とかの小さな記事があれば、それで一冊の本を書いてしまうのである。よくまぁそれだけ膨らませられるものだと思っていた。

 自転車操業だから、決められた日に本を出して入金がないと、支払がストップしてしまい、倒産してしまう。だから、何よりも締切を守ることが大切なのである。

 ある日、「末井さん、明日までに二十万円貸してもらえないかな」と社長に言われ、断わったらそのあとすぐ倒産してしまった。

 そんな仕事をして稼いだお金で、経堂のマンションに引っ越すことができたのだが、経堂に来たときは本当に嬉しかった。

 それまでは二階建ての木造アパートだったのが、今度はコンクリート作りの四階建てのビルなのである。しかも、部屋が三つもある。しかも、四階の窓から遠くに東京タワーも見え、その向こうに羽田空港から発着する飛行機の灯りも見えるのである。岡山の山奥で憧れていた都会の暮しが、いまここにあるのである。

 という感動も束の間、今度は一戸建て住宅に憧れて、無理して銀行ローンを組んで向ケ丘遊園に建売住宅を買ったので、経堂に住んだのは二年弱だった。それでも、二年も住めばそれなりに思い出があるものと思って行ってみたが、なんにも思い出がないことに逆に驚いた。思い出といえば、隣の部屋の夫婦がよく激しい喧嘩をしていて、奥さんがときどきうちに逃げ込んで来ていたことぐらいである。

 写真を撮ったあと、農大通りのM店でパチンコを打った。この店は、その昔一発台のターゲットを打ちに通ったことがある。そのときは、確か交換率3円だったと思うが。

 打ったのはCRマジカルサーカス、千円で二十回転弱の回りだ。これじゃあ勝てないと思いながらも、他に打つ台もなくズルズル三万九千円も遣ってしまった。パチンコ雑誌にかかわっていてこういうことを書くのは御法度だが、これじゃあみんながパチンコをやらなくなるのも当り前だと思った。そして、CR機を作った奴らに無性に腹が立って来た。

 


小田急経堂駅。うしろにそびえる建物は
植草甚一が住んでいた小田急経堂アパート。


農大通り商店街。パリーミキの建物がいい感じ。


駐車場の奥の小さな家。


窓辺のサンタクロース。


このビルの4階右端が私が以前住んでいた部屋。


路地。


小さな床屋。


柿の木がある世田谷らしい家。


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