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これは『MEMO』という雑誌で、2002年1月号から2004年の1月号まで、足掛け2年間連載していた「昨日までの風景。」という連載で、写真は神蔵美子が撮っています。
この連載を額田さんから頼まれたとき、1枚の写真とそれにまつわる小さな物語みたいなことを考えていたのですが、そんな器用なことは出来るわけもなく、例によって日記みたいな文章になってしまいました。でも、最初のころはちょっと気取って書いていて、いま読み返すと恥ずかしくなります。
毎回写真がついていたのですが、7回目と8回目と13回目の掲載誌がなくなってしまい、写真を入れることができませんでした。それから、写真は印刷物をスキャニングしているので、見づらくてすみません。(スエイ)
1
僕の部屋に貼ってある田山さんの三枚の写真
僕の部屋には、(神蔵)美子ちゃんが撮った田山幸憲さんの写真が三枚貼ってある。
一枚は、昨年舌ガンが再発して東京大学付属病院の分院に入院したとき、美子ちゃんとお見舞に行ったときのもの。紫陽花がしおれていたから、梅雨の終りのころだ。病院の喫煙室で、田山さんと僕が笑いながら何か話している写真だ。
田山さんは四年前に舌ガンになったが、同じ東京大学付属病院で完治していたから、今回も治るものだと僕は思っていた。田山さんは、入院で中断していた「パチプロ日記」のことを気にしていて、分院から本院に移ったら週末パチンコができるから、「パチプロ日記」を再開するつもりだと言っていた。「あれを書いてないと調子が悪いんだよ」と田山さんが言うのを聞いて、僕は十二年前に初めて田山さんに会ったときのことを思い出していた。
ふとしたきっかけでパチンコに夢中になって、パチンコ雑誌を創刊することになったものの、パチンコのことは何一つ知らなかった。人から『パチプロ告白記』という本を書いた東大中退のパチプロがいると聞いたので、さっそくインタビューしに行くことにした。パチプロというからには、さぞかし我の強い押しの強い人だろうと想像していたが、田山さんはまったく正反対の人だった。
「パチプロなんかになるもんじゃないよ」田山さんはいきなりそう言った。気負ってそう言ったわけではなく、本当にそう思っているようだった。その言葉には、パチンコしかできない人がいるという意味も含まれていた。そういう、いわゆる落ちこぼれの人たちに、田山さんはすごく優しかった。そういう人たちと酒を飲むのが、本当に楽しそうだった。
その田山さんの言葉で、僕は誰に向けて雑誌を作ればいいのか、おぼろげながら分かったような気がした。そして、僕も田山さんの仲間に入れてもらいたかった。「パチプロ日記」の連載を田山さんにお願いしたのは、そういう気持ちがあったからだが、田山さんは最初嫌がっていて、僕のことを悪徳商人と呼んでいた。それでも、僕の強引な依頼で、田山さんは「パチプロ日記」を書き続け、それは十ニ年も続いていた。
田山さんの「パチプロ日記」で励まされた人は多い。パチンコをやる人はどこか孤独なところのある人が多いのだが、だからこそ田山さんと通じ合ったのだろう。編集部に届いた田山さん宛のお便りを渡すと、田山さんはていねいにそれを読んでいた。田山さんも逆にみんなに励まされていたのだろう。「あれを書いてないと調子が悪いんだよ」と言ったのは、そういう意味だと思った。
もう一枚の写真は、用賀のスナックの前で撮った写真。田山さんは優しい顔で微笑んでいる。
美子ちゃんと喧嘩をしたり気まずい雰囲気になったりしたとき、よく二人で田山さんに会いに行っていた。田山さんは敏感だから、僕たちがうまくいってないことは分かっていたはずだが、そんなことはまったく口にせず、一緒にお酒を飲んでくれた。田山さんと話していると、イライラしていた気持も静まり、そのあとは僕らは自然と仲良くなっていた。いまでも美子ちゃんと気まずい雰囲気になったとき、いつもその写真を見ている。
そしてもう一枚は、昨年十二月に撮ったとり八の女将の美登利さんとの写真(下の写真)。とり八は用賀にある居酒屋で、田山さんはパチンコが終るといつも仲間とここで飲んでいた。が、この写真がおそらくとり八での最後の写真だろう。このあと田山さんは人と会わなくなってしまった。舌ガンが悪化し、食べることも飲むこともままならなくなった。痛みをモルヒネで押さえていた。そういう状態だったから、人と会うことができなかった。田山さんは一人でジッと死と向き合っていたのだ。
美登利さんは『パチンコ必勝ガイド』の田山幸憲追悼特集で、「まだ私の中では田山さんの死が受け入れられません」と書いている。僕も部屋でいつも田山さんの写真を見ているせいもあって、亡くなって三カ月経つのに、いまだに田山さんがフッと現れるような気がしている。もしかして、霊というものがあるとしたら、そういう気配を言うのだろうか。(2002年1月号)

田山さんと美登利さん
2 嘘つきは孤独の始まり
十二月になると、なんとなく感傷的になって、五年前に家出したことを、ふと思い出したりする。あれから五年も経ったのだ。
神蔵美子とつき合いだしたころ、まさか自分が妻と離婚することになるなんて、夢にも思っていなかった。それまで、結婚していながら何人かの女の人とつき合っていたし、だからといって、妻と仲が悪かったわけでもなかった。
本気で好きになった人がいて、その人から「結婚して」と唐突に言われ、「する」と言ったことがあった。その人と本当に結婚したいと思っていたのだが、長い間一緒に暮してきた妻を見捨てることは結局できなかった。だから、僕はそういうことに対しては臆病者で、常にチラチラ家庭を振り返る迫力のない恋愛しかできないと思っていた。
ところが、神蔵美子と付き合いだして二カ月も経たないうちに、紙袋二つ持って家を出てしまった。突然だったので、行くところがなくホテルを転々としていた。
僕は、ときに後先考えず大胆な行動をとることがあって、そういうとき頭の中には一つのことしかない。そのときも神蔵美子といつも一緒にいたいということしか思っていなかった。打算的なことを考えたり、情にほだされたりしていたら、家出できなかったと思う。
そのころの僕は、何もやりたいことがなく、どこにも行き場所がなく、夕方になると麻雀のメンバーを探したり、週の半分くらいは地下カジノに行ったりしていた。ギャンブルをやっているときが、緊張感があって一番充実していた。そういう僕のことを神蔵美子は、「はぐれ犬みたい」と言っていた。
あのとき家出できて、神蔵美子と一緒になれて、本当によかったといまつくづく思っている。あのままの状態が続いていたらと思うと、背筋が寒くなる。
神蔵美子と暮すようになって、家に帰るのが楽しくなった。初めて「家」という居場所ができたようだった。「最初だけですよ。生活になったら同じですよ」と言う人もいたが、五年経ってますます楽しくなっている。
嘘をつかなくなったことも、楽しくなった要因だ。それまでは本当に嘘ばかりついていた。妻には愛人がいることを言えなかったし、一人目の愛人に二人目のことは言えなかったし、二人目の人に三人目のことは言えなかった。
嘘を言い続けていると罪悪感で気持ちがどんどん沈んでいく。嘘で固めていたので、いつかばれるんじゃないかとビクビクしていた。嘘は心の毒だと思う。
二人の間に嘘やごまかしがある以上、気持ちがちぐはぐで真に向い合うことができなくなる。だから、僕は、女の人と向い合い、本当に愛し合ったことがなかったのかもしれない。
僕がつき合っていた女の人は、自分に都合が悪いことを隠そうとしたり、自分をよく見せようとしたり、お金が欲しくて嘘を言ったりする人が多かった。だから、女の人はみんな嘘つきだと思うようになっていた。僕も嘘つきだけど、お互い様じゃないかと思っていた。
神蔵美子とつき合いだして驚いたのは、嘘がないということだった。コンプレックスがなく、媚びることもなく、おもねることもなく、いつもありのままだった。そういう女の人とつき合ったのは初めてで、この人といれば、僕もありのままになれるような気がした。
僕は体中に嘘の毒が回り、ヘトヘトになっていた。早く嘘の世界から抜け出したいと思っていたのだろう。家出という大胆な行動をとったのは、そのことも関係している。
神蔵美子のストレートな目に見つめられると、自分の中に嘘が染み込んでいることに気づかされる。嘘をついてるつもりはないのに、結果的に嘘を言っていることがある。自分を正当化したり、人からどう見られるかということばかり考えたりして、知らないうちに嘘をついているのだ。そういう嘘は、人から指摘してもらわない限り気付きようがないではないか。
自分の中に嘘がなくなっていくと、心が浄化されたようにさわやかな気持ちになってくる。そして気持ちが強くなっていくように思う。つくづく、嘘は人を弱くし、人を孤独にする毒なんだなと思う。
夫婦で嘘はいけません。(2002年2月号)

オトサンをしている美子ちゃん
3 男の真のしあわせは女を愛するときにある
「聖書を信ずるかぎり、男の人生において最高に意義あることは、女を愛することにあるんです。女を愛するときにこそ、男の真のしあわせがあることに気づけず、政治にしろ事業にしろそのほかもろもろのことに、人生をかける値打ちがあると思われているのなら、本末が転倒してることになります。ひとりの女を愛しきるために、事業にしろ政治にしろそのほかのことにしろ、真剣に取り組んでいるのなら、実にすばらしいんですよね。」
これは『隠されていた聖書 なるまえにあったもの』(太田出版)にある、イエスの方舟のおっちゃん、こと千石剛賢さんの言葉だ。
この本は一九九二年に僕が千石さんの聖書の解釈に感動して作った本で、校正を含めて何回も読み返していたのだが、正直言ってこの箇所はピンとこなかった。
それまで僕には、みんながアッという雑誌を作りたいとか、すばらしい文章を書いて褒められたいとか、お金を儲けたいとか、いろんな欲望があった。それは、自分が世の中で優位な立場に立ちたいということだが、千石さんの本を作ったころ、なんとなくそのことに空しさのようなものを感じるようになっていた。だからといって、女を愛することが真の目標だとは思えなかった。
自分の目標が空しくなってくると、虚無のようなものが支配してきて、何事にも真剣になれなくなってくる。唯一ギャンブルをやっているときだけが熱中できて、生きている実感があった。
妻のことは愛しているつもりでいた。しかし、僕のことを好きだという人が出てくると、フラフラとその人に近づき、いつの間にか別れられなくなったりしていた。「女を愛する」ことより、「女から愛される」ことの方が気持ちよかったのである。
千石さんは「女を愛することに意義がある」と言っているのだから、女から愛されることには意義はないのである。というより、「女の人は、男を愛するものでなく、愛そうとしても愛することはできない」と言い切っている。
それまでは男は女を愛し、当然女も男を愛してくれるものだと思っていたから、この言葉は衝撃的だったが、気持ちはやはり「愛されたい」だった。美子ちゃんと出合って家を飛び出したのも、美子ちゃんに愛されていると思っていたからだ。
千石さんの言葉が、実感として受け取らされるようになったのは、美子ちゃんとうまくいかなくなったときからだ。
一緒に住んでみると、二人の性格、考えがあまりにも違い過ぎて、美子ちゃんは僕に対して不安になっていた。美子ちゃんが、僕を機関銃のように言葉で攻撃してくるたびに、僕は自分が嫌われているんではないかと思って、自分の殻に閉じこもってイジケていた。
「僕が嫌いになったんなら別れてやる」と思っていた。
千石さんはなぜ「男は女を愛することに意義がある」と言うのか−−それは、「一体の人格を発見することにある」ということだ。
聖書に「…人獨(ひとり)なるは善(よか)らず…」(創世記2−18)という言葉があって、ひとりではしあわせになれない。人間は神の言葉を聞いてどこまでもすばらしくなるようになっているが、神の言葉をひとりで聞いているだけではダメで、それを自分以外の誰かに伝えなければ、自分のすばらしさが現実に現れてこない。そこで、男の伝えることを受け止める人格として、女がつくられた。−−簡単に言うとそういうことになる。
二人だけが良ければいいという閉鎖的なことでなく、男は女を愛することによってすばらしい人間になっていく、つまりはすばらしい影響を人に与えられるようになるということだ。そして、平安で満ち足りた精神状態を獲得できるということである。
美子ちゃんとのことで悩むたびに、千石さんの本を再び読むようになった。そして、千石さんに会いに博多に行くようになって、千石さんの言葉が実感となって響いてきた。
美子ちゃんに何を言われようと、僕は美子ちゃんを愛しきると決心したら、二人の関係はすごくよくなってきた。二人の関係がよくなってくると、気持ちが豊かになってくる。
千石さんは昨年十二月亡くなられたが、千石さんの言葉は僕の中でますます大きくなっている。(2002年4月号)

イエスの方舟のおっちゃんこと、千石剛賢さん
4 特別な関係
神蔵美子と不倫関係になって、その三カ月後に妻のもとから家出した。なんの準備もなく、はずみで家を飛び出したようなものだから、最初は都内のホテルを転々としていた。しばらくして、美子ちゃんと方南町というところに部屋を借りた。そこで二人の新しい生活が始まるものだと思っていたのだが、事情がちょっと違っていた。美子ちゃんは「私と暮したら面白いと思うよ」と言っていたから、てっきり夫の坪内祐三さんと別れてから、その部屋に引っ越して来るものと思っていた。ところが、引っ越すには引っ越して来たのだが……ときどき坪内さんのところへ帰って行くのである。僕は妻とは二度と会わない決心をして家を出たので、アレレという感じだった。
そのときはまだ、嫉妬の感情はなかった。「私と坪ちゃんは特別な関係だから」と美子ちゃんから聞いたとき、言葉に疎い僕は、「特別な関係」という言葉を「常識を逸脱した、世間に類を見ない関係」というふうにとらえていた。別れたら二度と会わないという方がヘンで、それまで仲良くしていたのなら、たとえ他に好きな人ができたって、仲良くするのが自然なんじゃないかと思ったりした。常識では、こういうことになったら相手の男は怒り狂うものなのに、坪内さんから、いま美子ちゃんと飲んでいるから来ませんかという電話があったりすると、美子ちゃんと坪内さんはやはり「特別の関係」なんだと思った。『噂の真相』の編集者から、この不倫関係をスキャンダルとして載せたいという連絡があったときは、それを冗談にしてしまおうと、坪内さんと企画会議をしたこともある。常識を逸脱して、いっそのこと三人で暮してもいいかもしれないと思うこともあった。
美子ちゃんが坪内さんのところに行っているある夜、「特別な関係」という言葉をぼんやりと考えていたとき、「それって愛じゃん」とフト思った。そして、その瞬間から急に淋しくなってきた。そして、「僕とは肉体関係だけなのか」と、いじけた気持ちにもなった。嫉妬という感情が、初めて自分の中に生まれたのだった。それと同時に、いままで意識しなかったコンプレックスというものがムクムクと頭をもたげてきて、僕は元気がなくなってしまった。
それから二年ほど経っただろうか、今度は美子ちゃんが元気がなくなって来た。坪内さんとの関係が変って行くことに、たまらなく不安な気持になっていったようだ。そして、「転げるように淋しくなった。」と、美子ちゃんは書いている。その原因は僕にもあると思うと、ますます自己嫌悪に陥り、相乗効果で二人ともどんどん落ち込んで行く。
荒木経惟さんが、妻の陽子さんが亡くなったとき、空の写真ばかり撮っていたことを思い出し、「淋しいときには淋しい写真を撮ればいい」と美子ちゃんに言ったのは、自分を客観視することで、なんとかその状態から抜け出して欲しいと思ったからだ。そうしてもらわなければ、僕も絶望的になってしまうような状況にあった。
それから美子ちゃんは、坪内さんと暮していた三軒茶屋あたりを歩き回って写真を撮ったり、古いネガを引っぱり出して焼いたり、古い日記を見ながら文章を書いたりしていた。それはすごく痛々しいものだった。その作業が三年も続くことになるとは、そのときは思ってもみなかった。
そうしてできた写真文集『たまもの』を見ていると、辛かったあのころが思い出されて、だからこそよけいに懐かしくなってくる。その『たまもの』によって、美子ちゃんも楽になったし、僕も美子ちゃんと「特別な関係」を築くことができた。今度は『たまもの』を見た人たちが、楽な気持ちになってくれればと思う。(2002年6月号)

『たまもの』より
5 おっちゃんは生きている
イエスの方舟のおっちゃんこと千石剛賢さんの本『隠されていた聖書』(太田出版)の中に、次のような箇所がある。
「人間の認識能力をはるかに超えた、つまり、言いかたはへんなんですが、人間の認識の外側の事柄にぶつかったとき、現在の多くの人々は、低次元な自分の知性において認識してしまおうとします。それが実は大変危険なことなんです。それはバベルの塔を積み上げた当時の人々の愚に等しいものです。低次な人間の知性でもって神をわかろうとしている、また、わかったつもりになっている。このことは、信じたということばを使おうが、もったいぶって啓示を受けたというふうにごまかそうが、その内容はやはり、人間の分際で神を割り切ろうとしていることにほかならないと思います。」
これは、パウロが神の声(イエスの声)を聞いたときにとった態度について千石さんが語った言葉で、「凡人なら、めくら蛇に怖じず、ということばがあるように、なんの恐れも感じないかもしれません。が、凡人の傲慢さはこの天才パウロにはかけらもなくなり、恐懼している姿がよくあらわされてると思います。」とも語っている。パウロがどういう態度をとったかは、聖書(使徒行伝九章三節〜六節)を見てもらうことにして、ではなぜこのことを持ち出してきたのかというと、僕自身、自分の認識能力をはるかに超えたことを、いま知らされているからだ。
それは、イエスの方舟でいま起っていることについてだ。千石さんは、昨年の十二月に亡くなられた。そのあと週刊誌に、イエスの方舟の人たちが、「おっちゃんは生きている。死んでいるのは私たちだ」と話している記事が出たのだが、そのことに疑問を持たず素直に受け止めた人が、はたして何人いただろうか。
「人間は死なない」これは千石さんが集会のときいつも話していたことだ。霊のことだとわかってはいても、実感としてはわからなかった。だから、イエスの方舟の人たちが、「おっちゃんは生きています」と言うたびに、凡人の僕は、「それはそういう気になっているだけだ。思いつめているだけだ」と、低次元の認識で割り切ろうとしていた。
ところが、先日、イエスの方舟から手紙をいただき、その認識が変ったのだ。その手紙は、僕が『新潮45』(二〇〇二年三月号)に書いた「千石のおっちゃんはイエス・キリストだった」という記事のことから始まっていた。この記事について、イエスの方舟が発行している会報『エーシュ』で、ある人が、「千石のおっちゃんはイエス・キリスト」まさにその通りだが、「千石のおっちゃん」ではなく、「おっちゃんはイエス・キリスト」なのだと書いていた。千石は「古き人」の名で、おっちゃんは千石某という古き人を徹底的に嫌われ、否定し、古き人を押し出すことは一切しなかった、ということだ。それを読んでいたので、僕の記事が原因で何かまずいことでも起ったのかと、恐る恐る手紙を読み始めたのだが、そこには信じられないようなことが書かれてあったのだ。
ある六十代の男性が膵臓癌にかかり、医師から助からないと言われていた。その男性が、『新潮45』の「千石のおっちゃんはイエス・キリストだった」を読み、そこに出てくる千石さんの本『父とは誰か、母とは誰か』と『隠されていた聖書』を読みたいと、娘さんを通してイエスの方舟にお願いし、『隠されていた聖書』を送ってもらった。その後、何度か手紙の交換があった。あるとき、その男性が造影剤を打たれ、もうろうとしてベッドで横になっているとき、中年の口ひげを生やした男の人が出てきて、「お腹、軽くなるよ。軽くなるよ」と言いながら、膝頭を優しく揺すってくれたというのだ。その言葉でいい気持ちになり寝込んだら、口ひげの男の人が膝の皮膚をむき始めた。古くて汚い皮膚がバリバリ剥がされ、新しい皮膚が出てきた。また気持ちよくなり寝込んだ。詳しく書くスペースがないのだが、そういうことがあったという手紙がイエスの方舟にきた。
びっくりしたのは、そのことがあってから、その男性の膵臓癌はただの水泡に変っていたということだ。病院の長い歴史の中で初めてのケースらしい。
この男性の膝を揺すってくれた人物のいろいろな特徴を重ね合わせると、どう考えても千石さんなのである。
イエスの方舟からの手紙には、「おっちゃんは今、時間と空間を超えて、肉体をも自由自在に使い、また年齢もおっちゃんの好まれる年齢になることができます。私たちはこの手紙を通して、いよいよはっきりとおっちゃんの復活の事実を知らされました。」と書いてあった。
低次元の認識では、誤診と夢が重なったものとなるのだろうが、僕は素直に手紙に書かれていたことを受け止めたいといまは思っている。
妻の美子ちゃんに「千石さんは僕のところにはきてくれないね」と言うと、「それは、本当に求めてないからじゃないの」と言われてしまった。(2002年8月号)

イエスの方舟のみなさん
6 二人の楽園
この夏も、美子ちゃんと高島に行った。と書いても、高島(たかしま)を知っている人は少ないだろうな。
毎月、アクロス福岡というところで、イエスの方舟の集会が行われている。この集会に、年に五、六回は参加している。一人で参加するときは日帰りなのだが、美子ちゃんと行くときは、せっかく福岡まで行くんだから、どっか近くの温泉にでも…ということになり、北九州を一泊、二泊、三泊ぐらいで旅行することが多い。これまでに行ったところは、由布院、壁湯、蛍川温泉、長崎、柳川、そして唐津である。
唐津に最初に行ったのは、去年の八月だった。唐津の名所は、虹の松原と唐津城ぐらいで、「ほかにどこかありますか」と旅館の仲居さんに聞いたら、「宝当神社(ほうとうじんじゃ)に行かれたらどうですか」と言う。なんでも、その神社にお参りすると宝くじが当るそうで、実際二億五千万円当った人がいたとか。その神社は、唐津から船で十分ほどのところにある高島にあると言う。
海の向こうに見える、帽子を置いたような変った形の島が気になっていたが、それが高島だった。夜になると民家の明りがチカチカ光っていて、その明りを見ていたら妙に懐かしい気持ちになってきて、なんとなく高島に行ってみたくなった。
翌日、水上タクシーで美子ちゃんと高島に向かった。定期便もあるのだが、一時間か二時間に一本の割りなので、水上タクシーが便利である。
島は閑散としていて、船着場にうどん屋が一軒あるだけで、宝当神社にきた観光客が二、三人いただけだった。僕らは宝当神社には興味がなかったから、チラッと見て通り過ぎただけ。
五十世帯ぐらいあるのだろうか、つつましい小さな家々が軒を連ねている路地を、美子ちゃんと歩き回った。なんだか、二、三十年昔にタイムスリップした気分になるようなところだった。どの路地も掃除が行き届いていて、ゴミ一つ落ちていない。ときどきすれ違う島の人はみな老人かオバサンで、挨拶すると気持ちのいい笑顔が返ってくる。山に登ると遠くが見えて気持ちいいだろうと思い、登れるかどうか聞いてみると、いまは草木が繁っていて無理だが、春にはお地蔵さんのお祭りがあるので、「春にはさらえますから」とオバサンが言う。
そのオバサンに島を一周する道があることを聞き、その道を美子ちゃんと手をつないで歩いた。僕たちのほかには、だ〜れもいない。
二、三十メートルおきに、不動妙王とか千手観音とか釈迦如来を形どった石仏があって、それを見ると、この島の人たちの信心深さが分かる。そんな信心深い人たちが、なんで宝当神社なんかを作ったのだろうか。
左手にコバルト色の海、点在する大小の島々。歩くたびに海の景色が次々と変って行く。右手は植物が生い茂った絶壁。人が住めるのは船着場がある海岸べりだけだ。海から吹いてくる風が気持いい。僕はズボンを脱いでパンツ一つになる。それを見て美子ちゃんが笑う。ふと、この島は僕たち二人だけの島、みたいな気分になってくる。
一時間ほどかかって島を一周しただけなのに、夏の思い出として、その島のことがずっと頭に残っていた。
そして今年もまた、福岡に行ったついでに一泊で唐津に行くことにした。
福岡から唐津まで、電車は海岸沿いに走っている。鹿家(しかか)を過ぎたあたりから、あの台形の高島の側面が見えてきた。一年前、たった数時間いただけなのに、故郷に帰ってきたような、妙に懐かしい感じがしてずっと見ていた。
唐津に着いた日の夜、花火大会があった。海岸に出て、ビニールシートを敷き、美子ちゃんと寝っ転がって花火を見ていた。花火の向こうに高島が見える。民家の明りがチカチカしている。高島の人たちも、花火を見ているのだろうかと思ったりしていた。
高島に渡ったのは次の日の午前中だった。去年は水上タクシーに乗ったのは僕らだけだったのだが、今年は大勢の人が待っていて、水上タクシーは定員二十人なので、乗れない人も出ていた。なんでも、二、三カ月前、所ジョージが司会のテレビ番組で、宝くじが当る神社として宝当神社が紹介されてから、急にお客さんが多くなったそうだ。一日二千人の人が高島に渡った日もあったそうで、定期便に島の人が乗れなくてもめたことがあったとか。
船着場のうどん屋も、テラス方式にして店を拡張していた。去年はなかった、まねき猫などの宝当神社グッズを売っていて、生産が間に合わないと言っていた。そういえばさっき乗った水上タクシーも、去年より五十円安くなっていたが、往復のチケットを九百円で買わされた。ここぞとばかりに儲けに走っているようだった。
今回も同じように宝当神社には寄らず、路地を探索したあと、島を一周する道に入った。宝当神社は賑わっていても、この道を歩く人はいない。去年と同じように、ズボンを脱ぎ、パンツとTシャツで、美子ちゃんと手をつないで歩いた。
この島を一周するだけのために、また来年もここに来るかも知れないと思うのだった。(2002年10月号)

島を一周する道(上)と、帽子のような高島(下)
7 デン助物語
その猫が、ウチの庭に来るようになったのは、今年の四月ごろだっただろうか。鈴がついた赤い首輪をつけていたから、どこかで飼われている猫だとは思っていたが、ひょっとしたら捨て猫かもしれないとも思っていた。その猫を美子ちゃんはタヌキと呼んでいたが、口の周りが黒いので、僕がデン助という名前にした(若い人にはなんでデン助か分からないかもしれないが)。
庭先に煮干を置いてちょっと離れたところから見ていると、用心深そうにキョロキョロしながら近寄って来て食べ始める。食べ終るといつも忙しそうにどこかに行ってしまう。
続けて来るときもあれば、四、五日来ないときもある。しばらくデン助の姿が見えないと、「デン助どうしたんだろうね」と、ちょっと淋しそうに美子ちゃんは言うようになっていた。
デン助の現われ方は不思議で、庭を見ながら「このごろデン助が来ないなぁ」とか思っていると、ヒョッコリ現われたりする。まるでこっちの心を見透かしているかのようだ。ジッと僕の顔を見るので、僕もジッとデン助の顔を見ていると、なんだか無性に眠くなって気持よくなってくる。デン助には催眠術があるのかもしれない。
美子ちゃんは、デン助になるべくウチに来て欲しいと思ったのか、ツナ缶をあげるようになった。その効果があって、日に三回来るときもあったようだ。
デン助は僕たちにだんだん慣れて、最初のときのようなビクビクした感じがなくなってきて、ツナ缶を食べたあと、まるで僕らにサービスするかのように、庭石の上でゴロンゴロンと転げてみたりする。それを二人で見ているのが楽しい。
もしデン助が捨て猫だったら、ウチの子になるかもしれないと思ったことがある。しかし、七月になって、とうとうデン助は飼い猫であることが確定してしまった。
七月のある日、デン助の首についていた鈴のついた首輪がなくなっていることに、美子ちゃんは気がついた。ほかの猫とケンカして取れたんだろうかと話していたが、次に来たとき同じ首輪がまたつけられていたのだ。まさか、デン助が自分でつけるはずがないだろう。
飼い主らしき人がいることが判明して、ちょっとガッカリしたのは事実である。
そのころは、デン助は僕らにだいぶ慣れていて、触っても逃げなくなっていた。美子ちゃんがデン助をつかまえて頭を撫でたりしているとき、首輪の裏に「マキ、キュー」と名前らしきものが書かれているのを発見したので、「マキ、マキ」と呼んでみたが反応がなかったそうだ。「それは、マキさんところのキューちゃんじゃない」と僕が言うと、「あ、そうか」ということで、次に来たとき二人で「キューちゃん、チューちゃん」と呼んだのだが、やはり反応がなかった。
この話を、僕がインターネットで書いている「絶対毎日スエイ日記」に書いたら、それを読んでくれている『バリヤバ』の松田君から、その猫は牧さんちのキューちゃんで、牧さんちは造園業をやっているというメールが来た。松田君のお姉さんが、牧さんと友達だとか。
しばらくして、今度は牧さんから「はじめまして」というメールが来た。松田君からアドレスを聞いたのかもしれない。
先週は五日も帰らないので事故にでも合ったのかと心配していたそうだが、何食わぬ顔で帰って来て、お腹も空かしていないし汚れてもいないので、「これは絶対別宅がある」と確信したそうだ。「これからもおじゃますることがあると思いますが、デン助としてかわいがってやって下さい。一度主人とあいさつに行きたいと思っております」とメールは結んであった。思わぬ展開になって来た。
しかし、僕らが「デン助」と呼ぶとミャーと鳴くのに、「キューちゃん」と呼んでも反応しないのはなぜだろう。それに、牧さんが「五日も帰らない」と書いていたころ、デン助はウチに来ていなかったのだ。これらを総合して考えると、ウチ以外にも行く家が何軒かあるに違いない。しかも、それぞれのウチで、それぞれ違う名前で呼ばれているのだろう。デン助はその名前を全部覚えていて、それぞれに対応しているのではないだろうか。そう考えると、ものすごく頭がいい猫のように思える。
確かに表情も、ときどきウチに来るほかの猫より豊かである。サボテンの匂いをかいだりする情緒もある。
猫がとりもつ縁で、その後牧さんのご家族と交流が始まった。デン助について新たに分かったことは、僕らはデン助をてっきり雄だと思っていたが、実は雌だったということ。牧さんちにはもう一匹猫がいて、デン助はその猫と仲がよくないということ。デン助は網戸を開けられないので、帰って来たとき留守をしていると、またどこかに行ってしまうということ。デン助の放浪癖の一因は、こういうところにもあるのかもしれない。
いつか美子ちゃんと夜の散歩をしていたら、よその家の庭にデン助がいるのを発見したことがある。そのときは、大きいガマガエルと遊んでいた。美子ちゃんが小さな声で「デン助」と呼ぶと、こっちを見てミャーと返事をした。
そのデン助が最近あまり姿を見せなくなった。また新しい行き場所を見つけたのかもしれない。美子ちゃんが、「ウチも猫飼おうかなぁ」と言う今日このごろである。
という原稿を書き終った午前十時ごろ、お茶でも飲もうと階下に降りて庭を見ると、デン助がキョトンとした表情でこっちを見ていた。不思議な猫である。(2002年12月号)
8 猫との関係
昨年の十月から、うち専用の猫を飼い始めた。
ときどき庭に姿を見せるうち専用じゃない猫は、デン助、デカ顔、黒ホッカと三匹もいるのだが、猫がうちに来るのは猫の気紛れなのでいつ来るか分からないし、中に入れないからガラス越しの対面だけなので、そのうちに専用の猫を飼いたいと美子ちゃんが言い出すことは予測していた。
そして、美子ちゃんから「ペットショップで猫を予約してきたよ」と聞いたとき、「あ、いよいよか」と思った。
別に、猫を飼うことが嫌ではないのだが、僕の前の奥さんのことがある。前の奥さんは、もともと猫が嫌いだった。あるとき、僕が知り合いの女の子からどうしてもと言われ、断わり切れなくなり、トラ柄の雄の子猫をもらうことになった。奥さんに言うと反対されるので、とりあえず見せちゃえばなんとかなるだろうと、ダンボールの箱に入れて連れて帰った。すると、奥さんが、「何、それ」と言うので、「猫だよ。可愛いよ」と言うと、とたんに恐い顔になって「捨ててきて!」とキッパリ言う。困って、とにかく一晩だけ置かせてもらうことにした。
ところが、一夜明けたら、子猫がカーテンに飛び付いてユラユラ揺れているのを、笑いながら見ている。ものすごい元気な猫で、ダダダッと走ったかと思うと、壁に飛び付き、ガガガガッと壁に爪あとを残しなが降りてくる。
そのころ、新築の建て売り住宅に住んでいたのだが、わずか一カ月で壁や柱は引っ掻き傷でボロボロ、カーテンの下の方は穴だらけになって、あっという間に築三十年になってしまった。まぁ、築三十年はどうでもいいのだが、前の奥さんはそのときから異常な猫好きになってしまい、猫がどんどん増えてしまい、多いときは中に四匹、外に(通い猫=ノラ)六匹もいた。子供がいなかったせいもあって、前の奥さんは猫を自分の子供みたいに大切にしていて、それがちょっと気持ち悪かった。
猫は僕が子供のころも飼っていた。というか、家の周りにいるといった感じで、エサもほとんどやったことがなかった。猫は勝手に山鳩なんかを獲って来て(山奥だったので)、それを自慢げに見せにくるから、その山鳩を取り上げて焼いて食べたりしていた。猫とはそういう関係だったので、猫は猫であって、猫を人格化するのはなんだか気持ち悪かったのだ。
昨年十月の終わりごろ、美子ちゃんが猫を予約したというペットショップに、その子猫をもらいに行った。キジ柄の可愛い雌の子猫が、サークルの中にいた。砧公園に、まだ目が開かない状態で二匹捨てられていたのを誰かが拾って来て、獣医さんに連れて行って健康診断してもらってから、自分とこでは飼えないからペットショップに持って来たらしい。一匹はすでにもらわれて行ったそうで、尻尾の曲がった方が残っていた。
家に帰って、そのペットショップで買ったサークルを組み立て、その中に入れていたのだが、三日もしないうちにサークルは必要なくなった。サークルに入れるのは可哀想ということになり、一階のリビングのみ自由に走り回ってもいいことになった。
猫ジャラシをヒラヒラさせると、ダダダダッとものすごい勢いで飛んで来る。その走り方がまるでネズミのようで、毛の色も柄がはっきりしないネズミ色だったので、「名前をネズミにしようか」と僕が言うと、「えー、ネズミ?」と美子ちゃんは不満そうだったので、女の子らしく「ねず美」にすることになった。発音は、語尾を上げるとネズミになるので、ねず美の美を下げる。
美子ちゃんは、「厳しくしつけないと」と言って猫の行動範囲をリビングだけに制限していたのに、いつの間にか「ねず美は、二階へ行っても自分で降りて来れるよ」とか言っている。糸井重里さんと池谷裕二さんとの対談集『海馬』という本を読んで、行動範囲を広くした方が猫の海馬(脳の記憶装置)が育つとか言っている。押入には入れないと言っていたのに、入りたいのに入れないと猫にストレスがたまるからと、押入やクローゼットを開けっ放しにするようになり、テーブルの上には上げないようにしようと言っていたのに、食べ物がなければ上がってもいいということになり、障子は絶対破らせないようにしようと言っていたのに、もうボロボロになってしまった。
また築三十年になりつつあるのだが、まぁ、築三十年はいいとして、美子ちゃんは小さいころ、乳母のような猫に遊んでもらっていたそうで、猫を猫と思わないところがあるのが心配だった。
ところが、二カ月半経ったいま、猫を人格化したほうがいいのではないかと思うようになっている。このごろ、家に帰るとき、美子ちゃんとねず美が待っていると思うと嬉しいし、ねず美を通して美子ちゃんと会話することも多くなったし、ねず美が来てから美子ちゃんと喧嘩したことが一度もない。
猫は人間に飼われ始めてから五千年も経っているので、人間を癒す術を心得ていて、それが遺伝子の中に受け継がれて来たのだろう。猫によって人間が癒されるのなら、どんどん人格化した方がいいに決まっている。
ということで、わが家のねず美は、すでに猫ではなく家族の一員になっている。食事のときは膝の上に来るし、僕が原稿を書くためパソコンに向かうと、キーボードの上に上がって来て、勝手に文字を打ってしまうし、寝るときは、二人で寝ているフトンの間に入って来て、ゴロゴロ言っている。
僕が家に帰らないことが多かったから、毎日淋しかったんだろうなと、離婚して六年も経ったいまごろになって、前の奥さんと猫たちのことを思い出している。(2003年3月号)
9 夫婦喧嘩と猫
夫婦喧嘩は犬も食わないというが、猫はどうなんだろう。まぁ、猫はもっと食わないか。
その犬も食わない夫婦喧嘩のことを書こうと思っている。
夫婦喧嘩は、だいたい二日から一週間ぐらいで収まってしまう。二日というのは僕らのことで、一週間というのは知り合いの場合だが、他の事例を知らないから、だいたいこんなものだと思っているだけで、一年とか二年の長期戦でやっている夫婦も、世の中にはいるのかもしれない。
でもまぁ、だいたいはすぐ仲直りすることが多い。だから、第三者の目から見たら、「いったいあの騒ぎはなんだったんだろう」ということになるから、誰も関心を示さない。つまりは、犬も食わないということになるのだろう。
僕の両親の場合は、夫婦喧嘩して仲直りしないまま、母親は自殺してしまった。正確に言うと心中というやつで、隣の家の若い男を道連れに、ダイナマイトで爆発してしまった。
母親に男ができたのを父親が知ってから、夫婦喧嘩が絶えなかった。それがだんだんエスカレートしていき、母親を殴ったり蹴ったり、物を投げつけたりするようになった。まだ小一だった僕は、喧嘩が始まると怖くて、弟と部屋の隅でジッと身をひそめていた。
あるとき、母親に火鉢を投げつける大喧嘩があって、母親は着の身着のままで家を飛び出し、それっきり帰ってこなかった。そして一週間後、家から近い山の中で、恋人である隣の家の若い男と、ドカンと爆発したのだった。
そういう両親の、収まらない夫婦喧嘩を見てきたせいか、夫婦喧嘩がものすごく苦手というか、怖いのである。
この前妻と喧嘩したときは、本当に別れようと思った。すぐに、そういう気がないことは分かったが、家を出てホームレスになったら、どうやって暮らそうかと考えたりしていた。夫婦喧嘩で家を飛び出し自殺した母親のことが、ふと脳裏をよぎった。自分の気持ちを制御できない母親の血も受け継いでいるし、母親を殴るヒステリックな父親の血も受け継いでいるのだ。
自分がヒステリックになるのが嫌だし、自分が制御できなくなる怖さもあって、喧嘩になりそうなときは、いつも心のシャッターをピシャッと降ろすクセがある。そして、その場から早く逃れたい気持ちになってくる。それが妻を不安にさせ、さらにイライラさせてしまう。
本当はこの時点で、妻がイライラしている原因を取り除くようにすればいいのだが、それが面倒くさい。というより、心を閉ざしているので、そういうことが考えられない。
妻は、僕の怒りの感情を刺激するようなことを言い出す。僕は心を閉ざしていて、つまり一人の状態なので、人からそんなことを言われる筋合いはないなんて思って頭にくる。それに追い討ちをかけるように、グサッグサッと心に突き刺さる言葉が、妻の口から次々出てくる。ついに、キレて怒鳴り散らすようになる。そんな自分を軽蔑しているもう一人の自分がいる。
このごろ、このキレるということは、悪いことではないと思うようになった。エゴ丸出しで、言いたいことを言ってしまったら、心のシャッターが開くような気になったりするのだ。だから夫婦喧嘩というものは、お互いの親密度を高めるために有効なのかもしれないが、できればしない方がいいに決まっている。
夫婦喧嘩を防ぐ方法、それは猫を飼うことである。実際、わが家に「ねず美」(猫・牝)が来てから、夫婦喧嘩の回数が減った。
猫は人間のイライラを取り除いたり、怒りの感情を静める技を持っている。夫婦喧嘩中に障子をバリバリ破いて、障子の桟に引っ掛かってもがいているねず美を見て、「バカ…」と呟いて妻の顔に笑顔が戻ったりする。
妻が泣いているとき、ねず美が心配そうに寄り添っていたそうだ。それを聞いたとき、なんで自分はそうできないんだろうと、猫に嫉妬した。猫から学ぶことは多い。
いまの人たちは、自意識が異常に膨らんでいるから、夫婦喧嘩が絶えないんではないかと思う。そのせいかどうかは知らないが、このごろ猫を飼う人が増えているらしい。(2003年5月号)
10 家事の楽しみ
洗濯物をたたむのが好きである。
山のようになった洗濯物の中から、まずタオルだけを選んでたたんでいく。シワを伸ばし、端と端を合わせ二つに折り、それをもう一回二つに折り、今度は左右に二つに折る。ピシッと端と端が揃って、きれいな正方形になったら嬉しい。タオルはピシッときれいに重ねられるし、肌触りもいいので、タオルをたたむのが一番好きである。
次にパジャマやシャツなどの大物に挑戦する。袖があったりして複雑なので、たたみ方にも工夫がいるが、その分きれいにたためたときは嬉しい。
次はTシャツやランニングなどの下着類。これはわりと簡単に二つか三つに折るだけで、事務的にサッサと片づけていく。
ハンカチは、きれいに四角にたためるのだが、小さいからタオルのような迫力がないのが悲しい。
最後に残っているのは、パンツと靴下。このごろはズボンのこともパンツと言うが、下着の方のパンツである。
パンツ類はとりあえず二つに折って重ねていくのだが、きれいにならないから好きではなかった。特に、パンティはどうやっていいのか分からなかったので、たたまないでそのままにしておいた。そういう話を知り合いの女性にしたら、パンティのたたみ方は左右から少し折り込んで、下の部分を折ってそれにはさみ込むといいと教えてくれた。そうすると、確かにきれいに四角になるので、みんなそういう細かいことまでよく考えているんだなと思った。そうやってたたむと、パンティをたたむのも楽しくなる。
靴下は同じ物を二つ選んで合わせていくのだが、数が多いとパズルを解くみたいな楽しみがある。数が少なくなっていくにつれ、選ぶのも早くなっていくのだが、最後にどうしても一、二枚片方が残ってしまうのはどうしてなのだろう。
食器を洗うのも好きだ。
洗う前はだいたい流しに汚れた食器が山積みになっていて、野菜のクズやら卵のカラなど料理の残骸が散らばっている。きたなければきたないほど、やる気になってくる。
まずスポンジに洗剤をつけ、大きい食器から洗っていく。皿、お碗、茶碗、湯のみと洗っていくと、次第に流しが片づいていく。食器は水切りにきれいに並べ、最後にゴミをビニール袋に入れ、フキンで流し周りを拭いて終り。なんだろう、この気持ちの良さは。ものが整理、整頓されていく嬉しさなのだろうが、それだけではないように思う。
家事をやり始めたのは、美子ちゃんと暮らすようになってからだ。二人とも仕事を持っているので、家事は分担しようということで、最初のころは義務みたいに思ってやっていたのだが、やってみると家事は自分に向いているということが分かってきた。
料理にも以前挑戦したことがあるが、これはもう美子ちゃんにかなわないので、僕はあと片づけ専門である。
「家事なんて男のすることではない」と、家事を馬鹿にする男も多いが、男は家事をした方が絶対にいい。家事をやっていると、いままで価値があるように思っていた、地位だ、名誉だ、金だ、リーダーシップだといったものが、どうでもいいように思えてくる。言ってしまえば、それらは「権力」なのだが、その「権力」が不幸の始まりではないかと思えてくる。
「会社が命」みたいに思っている人は、最近少なくなったのだろうが、会社に命を預けても、会社は何も保証してくれないことは、証明ずみである。突然リストラになって、家事も手伝わないで家でゴロゴロしていたら、奥さんに嫌がられ「濡れ落葉族」の仲間入りになるのがオチである。
これから、男が救われるためには、マッチョな幻想を打ち砕くことではないだろうか。幸せはマッチョな幻想の中にあるのではなく、夫婦で仲良く暮らすことにあるということに気づかなければいけない。そういう意味でも、家事は大事なのだ。家事をしていると、どこの八百屋のダイコンが安くておいしいとか、夫婦共通の話題もできて話もはずむ。
これを書いているいま、美子ちゃんは風邪を引いていて、僕が洗濯したり、ゴミを出したり、猫のトイレを掃除したり、洗濯物を干したり、フトンを干したり、クリーニング屋に行ったり、部屋の掃除をしたり、家事を一手に引き受けている。
「家事って大変だけど楽しいね。ずっと家事だけやってたいなぁ」と言うと、「嫌だ〜、そんなの」と言って美子ちゃんは笑うけど、僕はまんざら冗談でもないのである。(2003年7月号)
11 わが家の庭の猫模様
わが家の庭に猫がよく来る。去年の四月ごろから来だしたのがデン助だ。その少しあとから、黒ホッカが姿を見せるようになり、そして顔デカが来るようになった。
デン助は、植物の匂いを嗅いだり、庭で昼寝したり、「デン助」と呼ぶとミャーと返事したり、なかなか情緒がある猫で、「今日はデン助来ないかなぁ」と、美子ちゃんとよく言っていた。
そんなデン助のことを、インターネットの日記に書いたら、飼い主の牧さんという方からメールが来て、牧さん一家とのつき合いが始まった。猫が取り持つ縁である。
そのデン助がこのごろ来なくなった。来なくなった原因は、僕らがなんとなくデン助を嫌いになったことが、デン助に伝わったからではないかと思う。
デン助は牝なのに、一カ月も放浪の旅に出たりするらしい。その放浪中、うちにもときどき来て何か食べて帰ったりしていた。
デン助を可愛がっている家は、わが家の他にも何軒かあるらしく、放浪のときはそれらの家々を回って生活しているみたいで、一カ月も家に帰らないでも平気ということは、それなりに頭のいい猫だから、僕らがデン助を嫌い始めたことをすばやく察知したのではないかと思う。
デン助をなぜ嫌いになったかというと、昨年の十月の終わりごろ、わが家でねず美という子猫を飼い始めてから、デン助がどんどん変わって来たからだ。ねず美に向かって、ガラス越しに飛びかかってみたり、僕らが見ているところで、わざとらしくオシッコを引っかけてみたり、だんだん攻撃的になって来たのだ。しかも、顔がどんどん大きくなり、人相、いや猫相がだんだん不気味になって来た。
自分のテリトリーだと思っていたところに、見知らぬ猫が来たもんだから、攻撃的になるのは猫の本能だろうし、顔が大きくなったのは、冬にそなえて毛が増えて来たせいだろう。何もデン助が悪いわけではないのだが、人間は勝手なものである。
デン助が来なくなった代わりに、黒ホッカ君がよく来るようになった。
黒ホッカ君は完全にノラだが、動作が鈍く、おとなしい猫だ。雄だけど、たぶん去勢されているんだと思う。
白と黒のツートンカラーで、黒いホッカムリをしているように見えるので、美子ちゃんが黒ホッカと名づけた。
いつも、ふと気がつくと庭に来ていて、ガラス越しにジッとこっちを見ている。その姿に、なんとなく哀愁がある。
黒ホッカ君が来ると、美子ちゃんはいつもミルクを皿に入れて外に置く。ペロペロペロと皿まで舐めている。
ねず美も黒ホッカ君のことが好きらしく、黒ホッカ君が来るとそわそわして、ガラス越しに黒ホッカ君と鼻をくっつけたりしている。
ねず美をまだ外に出していないのだが、「外に出したら、ホッカ君がいろんなところに連れて行ってくれるかなぁ」と、美子ちゃんは言っていた。
その黒ホッカ君も最近来なくなった。代わりに毎日来るようになったのが、顔デカである。
顔デカは名前の通り、顔のデカイ雄の飼い猫で、ちょっとずうずうしい猫なので、僕らにあまり好かれていない。
先日、網戸を顔でグイと押し開け、家の中に入って来て、ねず美の食べ残しのエサ、いやゴハンを盗み食いしていた。その前は、やはり網戸を開けて入って来て、ねず美の上に乗っかろうとしていた。寸前のところで美子ちゃんが見つけて追い払ったのだが、もう少しでやられるところだった。
顔デカの首輪はしょっちゅう替わっていて、それもどこにも売っていないような高級な首輪だと美子ちゃんは言う。家では相当可愛がられているようだ。
美子ちゃんは、顔デカの首輪に、うちの電話番号を書いた紙を縛りつけてみようかと言うが、どんな人が飼い主か分からないので僕は反対した。牧さんみたいないい人だといいが、「うちの猫にヘンなことしないで下さい」とか言われたら嫌だ。
黒ホッカ君が来なくなったのは、顔デカが追い払ったんだと美子ちゃんは言うが、年だから病気になったのかもしれない。雨が降ったりすると、どこにいるのか心配になる。
黒ホッカ君はもう来ないのだろうか。夕方になると、美子ちゃんが「ホッちゃーん、ホッちゃーん」と呼んでいる。その声がちょっとせつない。
(2003年9月号)

顔デカと悩殺ポーズをとるねず美
12 時間の映画「赤目四十八瀧心中未遂」
一昨年の四月二十九日、美子ちゃんと近所を散歩していたら、着流しで短髪の上野公園の西郷さんの銅像みたいな人が、子供を抱いて向こうから歩いて来る。ひょっとして荒戸源次郎さんでは……と思ったら、まさしくそうだった。
荒戸さんは恐い人だと思っていた。「天象儀館」のころから面識はあるが、気に入らないタクシーの運転手の首を、うしろの座席から足で絞めたとか聞くと、小心者の僕は荒戸さんになるべく近寄らないでおこうと思っていた。
「天象儀館」のあと、荒戸さんは映画に転向し、「ツィゴイネルワイゼン」や「陽炎座」や「どついたるねん」などの名作を、次々プロデュースしていく。
監督第一作めは「ファザーファッカー」だった。このとき、友達の秋山道男さんが出演していたこともあって、荒戸さん縁りの人達とロケ地の長崎まで表敬訪問した。ついでにエキストラとしてキャバレーのシーンに出させてもらい、僕だけ台詞をもらった。
そのあと、荒戸さんとは会っていなかった。映画の借金が何十億とあるという噂を聞いたことがあるから、ヤバイ人達から逃げているのではないかと思ったりしていた。
その荒戸さんにバッタリ会ったのである。久し振りに会った荒戸さんはちょっと年を取っていて、そのぶん昔より恐くなくなっていた。聞くと、僕らが住んでいるマンションのすぐ近くに、荒戸さんも住んでいたのである。
「お茶でも飲みましょう」ということで、近くの喫茶店に入って、そのとき車谷長吉の『赤目四十八瀧心中未遂』を映画にするという話を聞いた。ちょうどそのころ、僕も車谷さんの書いたものをよく読んでいたので、偶然って重なるものだなぁと思ったりした。
それから二年四カ月経った八月の終わりに、和紙に印刷され、血判みたいな判子が押された「赤目四十八瀧心中未遂」の試写状が送られてきた。ずいぶん仰々しい試写状で、その凝り方も荒戸さんらしいと思った。
試写会が待ち遠しかった。荒戸さんも「これでダメだったら映画から足を洗う」と言っていたし、撮影に一年以上かけていると聞いたし、面白くないはずはないと思っていた。映画を観る前からわくわくしたのは、本当に久し振りのことだった。
噂に聞いていたが、ものすごく長い映画だった。七時に上映が始まり、終わったのが九時四十分だったから、二時間四十分の映画である。しかし、まったく退屈しなかった。
主人公の生島与一に新人の大西滝次郎、綾の役に寺島しのぶ、焼鳥屋の女将・勢子に大楠道代、彫師・彫眉に内田裕也という配役が、この俳優以外に考えられないというぐらい、役柄にピッタリハマっていた。
打ち上げの席に、主人公を演じた大西滝二郎さんがいたのだが、最初まったく気づかなかった。映画の中でも、最初はボーッとした感じで存在感が薄いのだが、存在感が薄いがゆえに、観ている僕らは自分をそこにダブらせて、尼崎の異様な空間に、主人公とともに次第に引きずり込まれていくようになる。
主人公は、たどり着いた尼崎の古いアパートの一室で、毎日毎日臓物を串に刺している。そのアパートには、彫師や娼婦やヤクザといった、社会の裏側で生きている人達が住んでいて、主人公はその人達と次第に関わりを持っていくことになる。
時間が経つにつれ、主人公の存在がだんだん大きくなっていくのだが、そのころになると観ている僕らもズッポリ映画の中に入っているのだ。こういう仕掛けは計算してできるものではないだろうが、大西滝次郎さんの不思議な存在感と、映画が長いということで、それが可能となったのだろう。
荒戸さんとバッタリ会ってから二年四カ月、この映画の上映時間が二時間四十分、これも偶然の一致だが、単なる数字合わせということではなく、その時間を意識させてくれる映画でもあった。
僕らは、毎日毎日時間に追いまくられているが、社会からズレたところにまったく違った時間の流れがあるのだ。この映画ができるまでの時間もそうだし、映画そのものが興行を無視した時間でもある。その時間の流れを観ているみんなで共有する、そんな映画ではないかと思った。
荒戸さんは、「今度は四時間の映画を撮りたいね」と冗談で言っていたが、僕はぜひ撮って欲しいと思っている。(2003年11月号)

試写会のあとの飲み会で見かけた大西さんは、
映画の中で生島与一を演じた大西滝次郎とはまるで別人で、
撮影が終わったあとは制作スタッフとして働いていた。
13 秋山郷の発電所
上信越自動車道路を飯山で降り、117号線で大割野まで行き、そこから左に曲がって405号線に入る。レンタカーを運転するのは美子ちゃん、免許のない僕は、例によって助手席で地図を見ながらカーナビの役。といっても、道は単純で迷うことはない。
しばらく行くと、左右が切り立った高い山になり、その渓谷を流れる中津川が見えてきた。秋山郷の入口である。
秋山郷に入ると、とたんに紅葉がきれいになってきた。僕が育った岡山の山の3倍くらいはありそうな高い山々が、赤や黄色や橙色に彩られ、太陽の光りに輝いている。白樺の木が多く、その白い幹や枝がさらに山を美しく見せている。まるで絵に描いたような景色で、こんなにきれいな紅葉の山を見たことはこれまでなかった。
車を止めて休憩。紅葉の山を写真に撮ろうとカメラを取り出し、ファインダーを覗くのだが、どうもつまらない。山の雄大さが写真では撮れないのだ。やっぱ、こういうのは肉眼で頭に焼きつけるしかないと思うのだが、あちこちで紅葉を撮りに来たアマチュア・カメラマンが、山にカメラを向けている。
連休を利用して、三泊で野沢温泉に行くことにしたのだが、いつも泊まる民宿が二泊しか取れず、じゃあ一泊は秋山郷に泊まって熊鍋を食べようということになった。
秋山郷には、四年ほど前に一度来たことがある。そのときも美子ちゃんと一緒で、野沢温泉から山伝いのクネクネした道を通って秋山郷に入った。そのころはまだ美子ちゃんとギクシャクすることが多く、野沢温泉で喧嘩になり、ほとんど口をきかないままその道を走った。道が細くクネクネしていて運転に緊張を要するので、美子ちゃんはなおさらイライラしていて、「黙ってないでなんか言ってよ!」と言うのだが、なんにも言葉が出てこなくて、いたたまれない気持ちになっていた。景色も何も覚えてなくて、いたたまれない気持ちだけが秋山郷の思い出だ。
それから四年の間に、僕らはうんと仲良くなった。だから、今回はルンルンの秋山郷である。
しばらく行くと、右手に発電所が見えてきた。送電線が景観を壊しているなぁ。
穴藤、前倉、大赤沢などの集落を通り、今夜泊まる小赤沢の民宿「出口屋」に三時ごろ着いた。なんの変てつもないただの民宿。変わったところといえば、廊下に大きな熊の毛皮が二枚ぶら下がっているところだ。「これはどうしたんですか?」とご主人に聞くと、去年撃った熊だと言う。ここは代々マタギの家だそうだ。
浴衣に着替えて、美子ちゃんと小赤沢温泉「楽養館」へ行く。看板に「赤湯」と書いてあったが、お湯は泥色だった。
長湯は苦手なのですぐに出て、美子ちゃんが出てくるまで、土産物屋で買った「平家の谷」という本を読む。市川健夫という人が秋山郷のことを書いた本だ。そのタイトル通り、平家の落人が隠れ住んだのが秋山郷の起こりとか。
秋山郷は十二の集落からなる。自動車道路ができるまでは陸の孤島で、特に冬は四メートルの積雪に被われ、外部とまったく遮断されていた。重病人が出ると、雪の中を大割野まで何日もかかって医者を迎えに行くか、戸板の上に患者を乗せて運んでいたらしい。当然お金の蓄えがないと命を落とすことになる。
命を落とすといえば、飢餓で全員死に絶えた村もあるらしい。明治二十年の凶作のときは、山の草が生えなくなるまで、草の根を掘って食べたそうだ。
田んぼが増えたのは大正時代からで、それまでは焼畑農業が中心で、粟、荏草、大豆、ソバなどを栽培していた。米は病人が食べるものだったのだ。
なぜ大正時代に田んぼが増えたかというと、大正中期に大規模な発電所工事が行われ、莫大なお金を溜めた人たちは、積極的に開田を進めたからだ。
この発電所の工事は、雑魚川、魚野川の合流点の切明から水を取り入れ、穴藤まで導水管で二十キロも引っぱる大工事で、飯場には三千人以上の労働者が働き、芸者や女郎まで入ってきたとか。賃金が高く、村人もこぞってこの工事現場で働いてお金を残した。その好景気は、なんと十三年も続いたとか。
この発電所の工事は、秋山郷を大きく変えたのではないかと思う。つまり、資本主義経済が入ってきて、貧富の差が生まれ、贅沢をする者も出てきて、人々の心も変わったのではないだろうか。僕でもときどき資本主義に押しつぶされそうになるぐらいだから、純朴な大山の人たちはイチコロだったに違いない。
文政十一年に秋山郷を訪れ、「秋山紀行」を書いた鈴木牧之が、その動機として「秋山の人々は皆健康である。それは里人が煩悩に心なやまし身を色慾に傷つけて、あくせく生活するのとは違い、古代の人さながらの暮らしをしているからだ」と言っていたそうだ。
というところを読んだころ、美子ちゃんが温泉から出てきた。
熊鍋は、肉がちょっと固かったが、体がポカポカ暖まるようだった。(2004年1月号)
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