福神


 この原稿は、上杉清文さんほか日蓮宗のお坊さんたちが発行している雑誌『福神』の第3号、4号に書いた原稿です。
 美子ちゃんと2人でインドに行ったのは、1999年の暮れから2000年の正月にかけてでした。釈迦が悟りをひらいたブッダガヤー、釈迦が教えをひろめたラージギールを回り、サールナートからヒンドゥー教の聖地バナーラス(ベナレス)に行き、そして砂漠の町ジャイサルメールで正月を迎えるという僕たちにとっては大旅行でしたが、美子ちゃんがラージギールで風邪を引いてしまい、僕もその風邪がうつって、2人でゲホゲホ咳き込みながらジャイサルメールの寒いホテルの部屋で、毛布をかぶって丸まっていました。散々なインド旅行でしたが、いまは懐かしく思い出します。
 原稿は前半のブッダガヤーとラージギールのことを書いていて、連載時のタイトルが「図説・ブッダの歩いた道をちょっと歩く」でした。(スエイ)


ブッダガヤー

 ブッダガヤーは、釈迦が悟りを開いた場所である。その悟りとは、あらゆる苦しみから解放されることらしい。それを言葉にすると、「空」ということらしいが、どうも言葉では説明できないことのようだ。それはいったい、精神のどういう状態なのか、私はすごく興味を持っている。できれば自分もその悟りとやらを体験したい。

 私と同じように思う人が大勢いて、じゃあ釈迦が悟りを開いた場所とやらに行ってみよう。そうすれば、悟りは無理でもヒントぐらいはつかめるかもしれない、ということで、今日もブッダガヤーに大勢人が集まるのである。

 それを待ち受けているのは、インドの貧乏な人達である。彼等にとって観光客は、果物がなる山や魚が捕れる海と同じ資源なのだ。「マネー、マネー」と言って近付いてきたり、「ジュズ、安い」と言って物を売り付けたり、頼みもしないのにガイドになったりして、なんとかして観光客からお金を収穫したいとおもっている。「マネー、マネー」と言って、人からお金をただもらうだけなのは一番貧乏な人達で、子供達もそうやって働いている。そういう人は、身体に障害があるほうが稼げるそうである。だから、足が極端に細く、歩くときは昆虫が歩いているように見えるような子供は、みんなから羨ましがられるのかも知れない。


昆虫のように歩く子供。

 ブッダガヤーには、カルカッタから列車で行った。カルカッタを午後七時に出て、真夜中の二時半にガヤーに着いた。ホームに運転手が迎えに来るから、列車を降りたら動かないようにと、カルカッタの旅行会社のガイドに言われていたのだが、三十分待っても誰も来ない。思っていたよりガヤーは寒く、体がだんだん冷えてくる。

 ホームを見回すと、寝ている人がかなりいる。荷物を枕にしている人は、このホームで物を売る人だ。列車が着いたので、何人かがモッソリ起きてきて、風呂敷を広げ始めている。

 運転手が来ないので、私達はガヤーの駅を出て、近くのホテルに泊まることにした。

 駅を出ると、薄暗い中、おびただしい人達が外で寝ていた。何か、インドは家の内側と外側の境目がないようなそんな感じがして、外で寝ている人を見ても、不自然な感じがしない。雨期以外は雨も少なく、貧しいから盗られる物もない。だから平気で外に寝ることができるのだろう。釈迦はホームレスだったのだが、アウトドアも意外と快適だったのかも知れない。

 その日の朝、私達が泊まったホテルを紹介してくれたモノシー君(二十八歳、子供が二人いる)が、自分が勤めているホテルのボスに話をしてくれて、ボスの車と運転手を千ルピーで借りてくれることになった。

 その車で、モノシー君がガイドになり、八キロ先のブッダガヤーに向かった。途中モノシー君の友達とやらが乗り込んできて、なんだか分からないけど、一緒に行くことになった。モノシー君に替り、今度はこの人が途中をガイドしてくれる。いつの間にか、ガイドが二人になっている。

 しばらく行くと、ガイドブックで見た大塔が見えてきた。この大塔は、グプタ王朝のチャンドラグプタという人が建てた。しかし、十三世紀にイスラム軍団がインドを侵略したので、この大塔を土で埋めて小高い丘にして隠したそうだ。といっても、塔の高さは五十メートル以上あるので、これを土で盛るとすると、ものすごい土と労力が必要だったはずだ。宗教の力なしでは、とてもそんなことはできなかっただろう。掘り出されたのは一八八〇年、つい最近のことである。


ブッダガヤーの大塔。イスラム軍団が襲って来たとき、この大塔を土で隠したそうだ。

 大塔の周りは、土産物屋やモノゴイする人や観光客で賑わっていた。車を降りて歩き出すと、「日本から来ましたか」と言って、若いのか年寄りなのか分からないような、ちょっと人相の悪い男が付いてくる。嫌がる私達の気持を察したのか、私はガイドではない。あなた達にここを説明したいだけ、あそこで土産物屋をやっているから、もし本当によかったらちょっと寄ってくれるだけでいい、というようなことを、カタコトの日本語で言う。「まあ、いいか」ということで、ガイドは三人になってしまった。


ガイドが3人に増えて困っている美子ちゃん。

 大塔の周りを歩くと、座布団を敷いた板がところどころに置いてあって、何かと思ったら五体投地をする道具らしい。チベットの若いお坊さんが、両手に大きな手袋をして、伏せては起き上がる動作を繰り返している。まるで仕事でもしているような感じが面白くて立ち止まって見ていたら、ちょっと動作を中止してニコッと笑った。そしてまたすぐ五体投地を始める。思わず「ごくろうさん」と声をかけたくなる。

 大塔の裏側に、釈迦が悟りをひらいた場所があった。ピッパラ樹(菩提樹)のそばに金剛宝座があり、花やら金モールみたいなもので飾られている。まずはここで二人して正座で合掌。ガイドの一人に写真を撮ってもらう。

 この場所で釈迦は悟りを開いたのか、と感慨に耽ろうとすると、日本語の方のガイドが、この石像は何年前のものだとか、麻原はここに足を上げたからバチが当ったとか、やたらうるさい。同行人は不機嫌になり、「あの人嫌だぁ」と日本語のガイドを指して私に言う。

 ガイド三人に休んでもらい、私達は塔の中に入った。そこには、大きな釈迦如来がライトアップされてあった。体は金色に輝き、唇は真っ赤だ。まったく、派手である。よく見ると、頭光というか後光というか、その部分に小さな豆球が埋め込んであり、それがチカチカ点滅している。何か、ラブホテル感覚とでも言おうか。


ライトアップされた釈迦如来。ラブホテルの雰囲気がただよう。

 大塔を出て、日本語のガイドに百ルピー渡して別れ、私達はセーナー村に行くことにした。

 釈迦は苦行を続けていたのだが、あるときそれをやめてセーナー村に行き、村の長者の娘スジャータが差し出す乳粥を食べた。それを見た釈迦の修行仲間は、釈迦は堕落したと言って釈迦から離れて行く。

 釈迦は一人ピッパラ樹の下に行って瞑想にふけり、そして悟りを開くくことになる。

 釈迦が乳粥を食べたという場所はセーナー村が見おろせる小高い丘だった。ノンビリ農作業をする村人を見ていると、気持が安らぐ。


釈迦がスジャータが差し出す乳粥を食べたセーナー村。

 田んぼの畔道を歩いて行くと、子供達が手を出して追いかけてくる。ちょっと考えたい、ガイドも子供もしばしいなくなって欲しいと、私は思っている。宗教とは贅沢なことなのだろうか。

 セーナー村の小さな寺に、スジャータと釈迦の像があった。


乳粥を差し出すスジャータの像。派手。

 ピンクの衣装で、金色の器を差し出すスジャータは、かなりヘビーなメイクをした派手な人になっている。そして隣の釈迦は、……あれ、これはちょっとマズイのでは……、このデップリ太った三白眼の男は、いったい……。


え? この三白眼の男が釈迦?

 日本の寺で見る仏像には、たとえば、仏にすがらざるを得ないような、それを作った者のせっぱつまった気持が感じられたりする。そういう凝縮された精神性が、見る者の心を打つのだが、それが見る者に圧迫感を与えてもいる。

 まるでギャグ漫画のような顔の釈迦像は、大らかといえば大らかである。威厳のようなものはない。これは仏像を作る技術の問題ではないように私は思うのだった。


ラージギール

 1999年の年末から2000年の正月にかけて、同居人と二人でインドを旅行した。

 私はもともと旅行に消極的なので、旅行のプランをたてるのはたいてい彼女の方で、それに私が従うというパターンが多い。今回の、前半が仏跡巡り、後半は砂漠の町ジャイサルメールで過ごす、というプランも彼女が決めた。いつもは彼女が決めたプランに消極的に従っているのだが、今回は私も積極的な気分になった。「お、そういう手もあったか」と思った。砂漠で星を眺めるのもいいし、釈迦が悟りを開いた場所に立ってみるのもいい。私が目下関心があるのは、どちらかといえば物質的なことより精神的なことなので、釈迦が悟りを開いた場所に立てば、なんらかの精神的インスピレーションを受けるかもしれない、と思ったりした。


この菩提樹の下で釈迦は悟りをひらいた。

 カルカッタから列車でガヤーに行き、ガヤーから車でブッダガヤーに行き、釈迦が悟りを開いた場所、菩提樹の下に立ってみた。そして、そこで静かに瞑想し、釈迦の気分になってみる……なんてことはできるわけがなく、いつの間にか三人に増えたガイドがやたらうるさく話しかけてきて、同行人は機嫌が悪くなってしまった。ということは前回書いたが、しかし、そうなった原因は私にもある。切羽つまった目的意識がこっちになければ、向こうはただの観光客だと思って近寄ってくる。やたら話しかけてくるのは、向こうに切羽つまった状況があるからだ。向こうにとっては、こっちが返事するかしないかが死活問題なのである。

 話は前後するが、大塔にくる前に日本寺に行った。ブッダガヤーには、日本、チベット、ブータン、ネパール、タイ、ミャンマーといった仏教国が、それぞれお寺を建てている。ちょうど、各国のパビリオンといった感じだ。

 日本のお寺は、印度山日本寺という。印度山というところが、なんとも場当り的でいい加減感があるのだが、そういう細かいことは、インドではどうでもいいことなのかもしれない。


印度山というところが場当たり的。

 この日本寺では、現地の人に日本語教育をしているとガイド・ブックに書いていたが、ここで日本語を習ったインド人が、ガイドになったり数珠売りになったりしているそうだ。日本語が話せれば、商売はかなり有利になる。「それは皮肉な結果だった」とガイド・ブックに書いていたが、生きていくことが精一杯のインドでは、これは仕方がないことだと思う。

 釈迦がいかにして悟りを開いたのか、その悟りとはなんだったのか、ということを考えようにも、私達にインド人がまとわりついてくるので、どうしてもそのインド人のことを考えてしまう。私も二十歳ぐらいのときは、とにかく今日お金を稼がなければ、明日は生きられないというような生活をしていたので、インド人の気持ちは少しは分かる。精神的なことを考える余裕がないのだ。だから、ふと宗教は贅沢なものなのか、なんて考えてしまう。

 セーナー村を見学したあと、ガイドと分かれ、私達はラージギールに向かった。モノシー君が案内してくれると言う。モノシー君はガヤーのホテルの従業員なのだが、そっちの仕事はしなくていいのだろうか。

 セーナー村を出発したのは午後3時頃だった。ラージギールまでは八十一キロの道のりだから、ゆっくり走っても夕方までには着くと思っていた。ところが、道は舗装されてはいるものの、大きい穴ボコがあちこちにあり、車はその穴ボコをぬうように走る。予想外のノロノロ運転、おそらく時速十キロぐらだろう。

「この辺は、夜になると銃を持った盗賊が現われる」とモノシー君が言う。盗賊は集団で車を襲うそうだ。逃げようにも、なにしろ時速十キロだからとても無理である。だんだん暗くなってきたが、できれば盗賊には会いたくない。

 なんとか盗賊にも会わずラージギールに着いたら、すっかり夜になっていた。予約していたホテル、セントール法華にチェックイン。モノシー君は、盗賊が出るからこれからガヤーに戻るのは嫌だと言うので、みんなで外に食事をしに行くことになった。

 レストランに入ると、ちょっと人相が悪い人達が酒を飲んでいた。私達はその隣に座ったのだが、モノシー君が緊張しているのが分かる。チラッとその人達を見ると、突き刺さるような視線が返ってくる。私よりいろんなことに関して用心深い同行人が、「ここ(ラージギール)の人達には気をつけた方がいいね」と言う。


頭を撫でようとすると、ガイドに「噛まれるぞ」と言われた。
日本の犬とはだいぶ顔つきが違うインドの野良犬。

 ラージギールは五つの山に囲まれた盆地で、釈迦の時代はマガダ国の首都で、当時は四十一キロにも及ぶ城壁で囲まれた王舎城があったそうだ。出家したブッダが修行した場所でもあり、悟りを開いたあとも永く滞在して多くの説法をした場所でもある。それは、ここの王様が釈迦のファンだったこともあるのだろうが、ここに暮す人々も、精神的なものを求める善良な人達だったからではないだろうか。

 昔栄えたラージギールも、いまは衰退し辺境の地となってしまった。辺境とは、貧しいということである。

 釈迦の時代には、貧しいという概念はあったのだろうか。いまは地球の隅々まで経済が浸透し、どんな辺境に行ってもお金は偉いのである。お金が偉くなればなるほど、貧乏な人達の心はすさんでいく。

 翌日、車の中で寝たモノシー君と運転手はガヤーに帰って行った。代って、ガヤー駅に私達を迎えにきているはずだった運転手が、今ごろになって現われた。二日間私達をあちこち探し回っていたと言う。じゃあなぜあのときガヤーの駅にいなかったのかと聞くと、自分はそこにいたと嘘を言う。その運転手には次の日の朝きてもらうことにして、私達は竹林精舎跡や温泉を見学に行った。案内してくれたのは、昨夜食事をしたレストランで働く子供と、そのお兄さんである。

 ラージギールにはインドでは珍しい温泉があって、その温泉はヒンドゥー教系とイスラム教系に分かれている。私達が行ったのは、ヒンドゥー教系で、行くといきなり恐ろしい顔をした男達に無理やり引っぱられ、大きな卵みたいな男根石の前にひざまずかされ、手に温泉のお湯をかけられ、千ルピー出せと言われた。そうやって緊迫した状態にして、観光客からお金を取っているのだろうが、いきなりだったので恐かった。私達は二百ルピー渡して、逃げるようにそこを出た。やはりここの人は、心がすさんでいるのかもしれない。


ラージギルのヒンドゥー教系温泉。日本の温泉とはだいぶ趣きが違う。

 ラトナギリ(多宝山)にはロバの馬車に乗ってトコトコ行った。このロバの馬車は、のんびりして心がなごんだ。ラトナギリはラージギール五山のひとつで、日本山妙法寺が作ったリフト型ロープ・ウェイで、頂上まで登れるようになっている。インドではこのリフトが珍しいのか、沢山の人達がリフトに乗りにきていた。頂上には、やはり日本山妙法寺が建てた真っ白な仏塔がある。世界平和の塔とも呼ばれているそうだが、私は精神的なものは何も感じられなかった。この山の中腹には、釈迦が弟子達に法華経を説いたとされる.グリッダクータ(霊鷲山)があり、弟子達が住んでいた洞窟もあるそうだが、そこには行かなかった。


ロバの馬車でトロトロとラトナギルに向かう。


ラトナギル山頂にある日本山妙法寺が作った仏塔。キッチュである。

 ラージギールには一日で飽きてしまった。予定は三泊だったが、二泊で充分である。あの嘘つき運転手が現われたので、予定を一日繰り上げバナーラスに行くことにした。

 ラージギール一帯は朝は深い霧に包まれる。その霧の中をかなり早いスピードで車は走る。三メートル先も見えないのに大丈夫なのだろうか。それとも、この運転手の目は特殊で、霧でも見えるように進化しているのか。

 私の隣では同居人がグッタリしている。昨夜、大浴場に入ったのが原因だ。セントール法華には、日本の温泉ホテルのように、大浴場がある。日本からのお客さんが多いからなのだろうが、大浴場の設備をするのなら、お湯も日本と同じ温度にしてもらいたい。「大浴場があるよ」と、温泉好きの同行人は喜んで入ったのだが、お湯がぬる過ぎて風邪を引いたじゃないか。

 ラージギールからバナーラスまでの道は、途中から大渋滞になった。ひっくり返るのではないかと思うほどの積み荷をした大型トラックが、延々と続いている。「困ったなあ、病人がいるのに」と思っていたら、運転手は道方にわずかな隙間を見つけ、道路から半分はみ出しながら、渋滞のトラックを追い抜いてゆく。ちょっと乱暴だが、さすが運転専門だけあってうまい。もし渋滞に巻き込まれたままだったら、その日のうちにバナーラスに着かなかっただろう。

 積み荷が重すぎてバランスを崩したのか、道の脇に寄り過ぎたのかしらないが、トラックが道路の脇にゴロンと転んでいる。そういう光景を何回か見た。まるでゾウが転んでいるようだ。トラックの周りに見物人は集っているものの、なんにもしようとしていないところがインドっぽい。

 バナーラスという地名は「地球の歩き方」を参考にしているのだが、日本ではベナレスという。向こうではヴァーラーナスィーだ。ヒンドゥー教の聖地バナーラス、ここにきてガンジス河の水で沐浴すれば、すべての罪は浄められ、ここで死んで、遺灰をガンジス河に流せば、輪廻からの解脱を得られると言われているそうだ。


ガンジス河で沐浴すれば、すべての罪が許される。
この河に遺灰を流せば、輪廻から脱却できる(バナーラス)。

 一応テーマは仏跡巡りなので、ヒンドゥー教のことはあまり書かないが、インドでは仏教よりヒンドゥー教の方が偉そうだ。偉そうといえば、ラージギールからバナーラスにくる途中、全裸で歩いているジャイナ教の行者を見たが、これは偉いと思った。ジャイナ教の教えとはいえ、モロ出しで平然とした態度でいられるのはすごい。

 バナーラスから約十キロの地に、釈迦が悟りを得たあと最初の説法をした地サールナートがある。日本では鹿野苑と言われている。


サールナートの大塔。昔この塔を見た人たちは、その大きさに驚いたことだろう。

 ブッダガヤーの菩堤樹の下で悟りを得た釈迦は、それが果たして人々に理解できるだろうかと考え、それを普及すべきかどうかさらに考えた結果、説法伝導を決意した。ここで釈迦が説法を断念していたら、世に仏教はなかったはずである。説法伝導は決まったが、問題は最初に誰に話すかである。あれこれ考えたあげく、かつて苦行をともにした仲間、いまは苦行を捨てた釈迦に失望し、鹿野苑に行っている五人の修業者に話そうと決めたのだった。そして、釈迦の鹿野苑までの二百五十キロの旅が始まるのであった。鹿野苑に着いた釈迦を見て、五人の修業者は、釈迦は落伍者だから話をするのはやめようと話し合っていた。ところが釈迦が近づいてくると、その姿が光り輝いているのである。以前とは違って、まさしく仏陀になっている。五人はとり急ぎ歓迎の場所を設けた。……というような話が、ガイド・ブックに載っているが、私はこの話が好きだ。釈迦が光り輝くということは比喩なのだろうが、悟りを開いた人ということがどこかで分かったのだろう。そして、それは誰にでも分かることではなく、釈迦も五人の修行者達も、お互い真理を求めようと必死だったからそれが分かったのだと思う。私はサールナートで初めて釈迦の時代を偲ぶことができたような気がする。


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